夏休みの身代わり彼女

清田いい鳥

第1話 『カナちゃん』

 いつも通りの時間に登校してきた同級生の様子が変だった。顔面をうっすら青く染め、他の奴らの挨拶にも反応せず。どうしたんだよ、と誰かが尋ねる前に開口一番こう言った。


「昨日の帰り……吉成よしなりんとこにお見舞い行って。元気だった。話し方とかもいつも通りで。でもそろそろ帰るわってときに、あいつ急に……カナちゃん最近来てくんない、とか言い出して……」


 ザワッ、と一斉に小さな悲鳴や驚きの声で場が沸いて、瞬時に凪いだ。そして揺り戻しが来たかのようにめいめいが思うまま発言し、不穏な言葉を投げ合っていた。『ヤバくない?』『治ってないんじゃ』『カナちゃんて、去年さあ』。


 教室の一角に落とされた不安の波紋は瞬く間に広がっていた。それは席について硬直していた俺の胸元まで到達し、本当に波に攫われたときのような揺れとして感じられた。いやに生々しい感触だった。


 棒立ちしている男子たちは、俺と同じように固まっている。女子のひとりが突然泣き出し、顔を覆って俯いた。同じように動揺していた周りの女子たちが彼女の異変を察知し、背中をさすり慰めていた。


 事の詳細を知りたかったが、集まるタイミングを逃してしまい立ち上がれない。事情をよく知らないであろう者たちは個々で集まり、噂話に勤しんでいた。動揺と不安の集団感染で起こってしまった喧騒は、担任教師が入室してくるそのときまで収まらず、皆が囀り続けるばかりだった。


 バスケの試合で頭を強打し、救急搬送された吉成は現在も入院中だ。観覧席で一部始終を見ていた俺たちはあのときも、今のような恐慌状態に陥ったことを覚えている。事故の再現で使われるようなのっぺらぼう人形のごとく、体育館の床をめがけて思いきり倒れた吉成の姿。きっと一生忘れられない。くっきりと焼きついていて消えやしない。


 でも吉成は今も生きている。怪我が治ればすぐに帰ってくるだろう。そんな俺たちの期待はあっさり裏切られる形になった。記憶の混濁が見られた吉成は精密検査やら何やらのため、俺たちが予想していた以上に入院期間が長引いたのだ。


 面会謝絶が解禁され、みんなで会いに行ったときのこと。話自体にはきちんと反応してはいたが、それが限界である様子だった。特に顕著だったのは話者の名前や、いま話題にしている者がどこのクラスの誰のことなのかがいまいちピンとこないようだったこと。みんな明るく和やかな空気を作って話しながら、実は全員が大小辛いものを感じていたと思う。


 しかし退院予定日が近づくにつれて、その明瞭としない奴の記憶は徐々に回復を遂げてゆき、人の顔の見分けから名前までもを無事に思い出せてきたようだった。


 この辺の事情はほとんど伝聞である。俺は奴とは異なる部活をサボり毎日会いに行ってはいたのだが、家庭の事情でしばらく足を運ぶことができなくなった。そのわずかな期間で、こんなに大変なことになっていたなんて。だって、吉成の彼女であった『カナちゃん』は、もうとっくに。




 ——————




「お前どこ中だった? へー、知らん。オレは美浜中。知らないか。ふーん。クラスに知り合い何人いる? ひとりもいないの? えー、オレも!」


 ドキドキとうるさい心音を必死で感じぬふりをして決死の覚悟で話しかけたが、当の吉成は予想外に気さくな態度で接してくれて拍子抜けをした。入学式の当日に見かけたときは気だるい空気を纏っていて、誰とも仲良くする気はないです、とでも言いたげな印象を持っていたからだ。後日にその理由を尋ねたら『眠かっただけ』と言っていたが。


 たとえ卒業の日まで誰とも親しくならずとも、あいつはそういう奴だから、という気遣いをしてもらえそうな雰囲気を外見から漂わせていた。後ろ頭をざっくり刈り上げ、その他の髪は長めに下ろしたファッション性のある髪型。美容室で一体どう注文していくら払えばそうなれるのか、そこからして全然わからない俺からすると奴はカッコいい、という賞賛に値する男だった。


 しかし態度や年齢からしてベテランであろう我らが担任教師から見れば、俺たちなどは幼子同然であるらしい。吉成は初日から早速彼に『お前、それで前見えてんのかよ。顔が全然見えねえだろが。切れ切れ』と、注意されていた。


 返事は一応していたようだが声まではこちらに届かず、また教師も奴に構いすぎず、意識をすぐに別の方向へと変えていた。よくある教師と生徒の光景。翌日になれば言った当人であれど忘れてしまいそうな軽い指摘を、しっかり聞き入れ改善してきたことに気づいたときは、あまりの素直さに感動を覚えて思わず話しかけに行ってしまった。


「……あのさ。髪ってどこで切ってんの? 街の方とかにある美容室?」

「ん? うちはオカンが美容師だからオカンの店で。ていうかあの人ソフトモヒカン大好きだからさー、バリカン持って来られっとハラハラすんの。あっ、とか言ってミスったフリして前髪バイバイとかマジ有りうるし」


「ふっ、バイバイウケる。オカンって大体そんなもんよ。俺さ、痛くなくなるおまじないするよー、つって抜けかけの歯に糸巻かれて、強制乳歯バイバイされたことある」

「ひー、つら。同情を禁じ得ない。オカン残酷エピソードじゃん」


「大丈夫、髪は切られても痛くない」

「痛いわハートが。しばらく凹むわ。あっ、オレ吉成湊よしなりみなと。以後よろしくー」


 このときが一番ハラハラしていたと、かえすがえすもそう思う。緊張のあまり不適切な表現をペラッと使ってしまわないか、言葉に詰まって話のリズムを狂わせてしまわないか、そんなことばかりを考えながらも会話を成立させていたのだ。


 当然であるが不慣れな環境で頭を高速回転させ続けたその日は帰宅後に、制服を着たままでこんこんと寝入ってしまった。翌日に目覚めたときは今日が土曜で良かったと胸を撫で下ろしたが、その安堵は軽い発熱症状となって噴出し、結局ずっと横になることしかできなかった。


 月曜にまた登校するのが楽しみなような、不安なような。そんな考えの虜となって朝食もろくに食べられず、俺は朝から情緒を乱していた。『あんたそんな繊細タイプだっけ』と母にからかわれながら家を出て、バスに揺られて小一時間。


 教室でまた吉成の顔を見たときは、ああ俺は性懲りもなく、と内心己に呆れながらも笑顔を作った。先週と雰囲気が違うなんて思われないよう、懸命に笑っていた。




 ——————




 見舞いに行くのは久しぶりのことだ。俺は気楽な文系部活を気軽にサボり、吉成が入院している大きな病院へ向かっていった。最近まで面会すらできなかったせいか、そこそこの広さを確保してある個室で奴は過ごしている。


 何度も見たクリーム色の扉をしばらく眺め、よし、と覚悟を決めてノックをし『どうぞー』という返事を聞いてから息を吸って吐き、取っ手を握って横に引いた。


 後ろ手で扉を閉めながら見た吉成の表情は、想像以上に明るかった。パッと華やぎ嬉しそうで、正直なところじっくり見たいがやめておこうと思うくらいには甘い笑顔を俺に真っ直ぐ届けてくれた。


 少し痩せてしまったような気がする。前も同じことを思ったけれど。『病院食飽きたー』と言っていたから、あまり食べられていないのかもしれない。


「ごめん、久しぶり。うちさ……」

「すげー久しぶり! 最近全然来ないからら、飽きられたのかと思った!」


「いやいや、飽きたりしないから。最近さ、俺の父方の——」

「えー? だってオレ、頭これじゃんか。縫うためにがっつり剃られちゃってさー。めっちゃ似合わんかっこわる、って醒められたかと思って」


「? いや、別にカッコ悪くはないけど。ていうか元が良い——」

「遠い遠い。説得力がない。ほらー、嫌じゃないならこっちおいでー。今の時間帯なら誰も来ないから!」


 ——こっちおいで?


 俺が入室してからずっとニコニコと上機嫌である吉成は、まるで子どもか何かに語りかけるような優しい口調で側へ寄れ、と誘ってきた。


 奇妙なような面映いような気分で目線をあちこちにやってしまったが、なにか面白い話なんかを聞かせたいのだろうかと考えつき、丸椅子を片手に側へと寄った。しかし、吉成が言う『こっち』とは、白い手すりがついたベッドの真横のことではなかった。


 相変わらずニコニコとしながら、ベッドの上をポンポンと何度も叩いているのだ。しかもわざわざ自分は少し移動して、座らせるための空間を作ってまで。まさかそこへ座れと? 俺が? いやいや、変だろう。なんでだよ。距離感がちょっとおかしいぞ。


 吉成は変な顔をしていたであろう俺を見て『早くー』と急かしてきた。真っ白なシーツの上で、奴の手のひらが忙しなく羽ばたいている。


 そこへ自分が座ったときの光景を先に想像し、顔に血が集まる気配を感じて俺は大いに焦ってしまった。頭の中を即座に検索した結果、なるべく別のことを考えれば良いと思いつき、今日習ったばかりの数式を思い浮かべながら恐る恐る腰掛けてみた。


「なに……あ!? えっ!? なんでっ、吉成! なんだよマジで!」

「今日さー、なんかよそよそしくない? やっぱり引いてんでしょ。この頭。ショック〜〜」


「だから引いてないって、あ、ちょっ! なあっ……」

「ねー、なんでみなとって呼んでくんないの。さびしーなー。ほんとにお別れ言いに来たんじゃないんだよね?」


 ……せっかく、せっかく赤面せぬよう頑張ったのに。何もかもが水の泡である。吉成の野郎は迷いなく俺の上半身を両手で抱きしめ引き寄せて、み、密着し、さらに、耳にキスまで落としてきやがった。


 これでどうやって平静を保てというのだ。無理だそんなの。絶対無理。しかもこいつ、まさかとは思うが、俺の唇を奪おうとしているのではないか。顔が近い。焦点が合わなくなるくらいにグイグイと近づいてくる。


 顔が熱い。身体も熱い。汗がドッと吹き出してきた、バレたくない。無言で狙いを定めている気配が濃くなってきたのを感じた俺は、必死で首をひねってねじって回避した。それでなんとか避けたつもりだった。


「あ、ちょ……! 離してっ……!」

「イヤでーす」


「誰か来るって……! 見られるから……!!」

「来ませーん」


 顔だけに集中していたせいで、剥き出しの首には意識を全く向けていなかった。まんまと噛んでしゃぶるような行為を許したせいで、あらぬ所が準備を開始する。汗なんかはまだ気付かれたって良い方だ。でもここだけは絶対にいけない。俺の尊厳と、今後の関係性にヒビが入る。


 湿った舌の柔らかさ。奴の粘膜から浸透してくる温かさ。太い動脈を埋め込んだ俺の首筋へと直接に。耳元で弾けるリップ音。目を閉じていても形がわかるくらいに押し付けられた、奴の顔面の造形すべて。思っていたよりずっと強かった、男の腕力の怖さと迫力。


 騒いでしまえば人が来る。でも振り解いてしまえばきっと次はない。次を期待していることも絶対知られたくないが、期待してしまったことは己の欲望から発生したものであり、事実であるからして曲げられない。それはすでに俺の記憶媒体へ刻まれた。上書きなど不可能である。


 どうしよう。どうすればやめてくれるのか。やめて欲しくはないけど駄目だから。別に駄目なことじゃないはずだけど、とにかく駄目だ。ほんとは良いけど、絶対駄目。このままでいたいとほんとは思うけど。


「ここじゃダメ?」

「えっ……えっ!? なにが!?」


「ちょっとだけ」

「だから……!! なにが!!」


「もー。せめてチューしたーい」

「……!! ダメ……!!」


 甘えるような口調でこれ以上を求める台詞をさらりと吐かれ、思わずギョッとして顔だけ振り向いた。するとチャンスとばかりに奴の手が俺の顎や頬を掴んできて、一度死守したはずの唇は奪われた。


 キスがどういうものなのか、今までずっと知らないままで生きてきた。服で隠れる箇所は自分で触れても、ひとりでは絶対できない行為だからだ。情けないがこれをどう受け止めて、どう構えていれば良いかもわからず、ずっと目を閉じ硬直していたような気がする。


 なのに侵食された口の中だけは、奴の舌と体温で溶かされてゆく心地がした。常に空洞であったはずの口腔内は、どこからが俺でどこまでが俺じゃないのか判別がつかなくなっていた。味なんかなにも感じないはずなのに、柔らかくて優しい甘さのものをたっぷりと与えられたような恍惚感で頭の芯から痺れがきて、背中の軸がゆるみ、腰がわずかに抜けてしまった。


 股間だけは元気に硬直していたが。触られることを今か今かと期待して。座っているため、そいつを隠してくれる衣服は上下左右へと引っ張られている。余裕と遊びを失くした布地は中の膨張を抑え込むことしかせずに、誰にも構ってもらえない器官は痛い痛いとひとり虚しく叫んでいた。


「……ねえ、カナちゃん。なんでしばらく来てくんなかったわけ? 忙しかった? いつも遅くまでいたからお父さんとかに叱られた?」

「…………え…………?」


 その一言を耳にして、意味をしっかり理解できたその瞬間、混乱と等量であった夢心地気分は瞬時にどこかへ消し飛んだ。一年生のときに同じクラスであった、あの同級生の台詞を思い出す。


 ——カナちゃん最近来てくんない、とか言い出して——


 間違えているなんてものじゃない。吉成は完全に、俺をかつての彼女だと認識していたのだ。顔など全く似ておらず、体格もまるで違う、そもそも性別が異なる相手を『彼女』だと。

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