24 朝凪

 外が薄明かりの中にぼやけて来た頃、不意に美津子は目を覚ました。家の中はしんとして、まだ朝食の準備にも早いようだ。どうにも眠り直すことが出来ず、美津子は下駄を突っかけて、勝手口から路上に出た。

 街もまだ早朝の眠りの中で、曇った空は薄鈍色に広がり、鳥の声が遠くに聞こえるばかりだった。人っ子一人いない、静まり返った道を散歩のように当てどもなく歩いて、橋のたもとに辿り着いた。数日前は橋の向こう、雨の中で、小枝子の嫁入りの報を聞いたところだった。あの時あれだけ降り注いでいた雨は嘘のように干上がってしまい、夏の乾いた地面を晒している。川は静かに流れていて、いっそ不気味な程に音らしい音が遠ざかっていた。

 部屋着のまま、人目に付きかねない場所にぼんやりと立っているのが可笑しくて、美津子は一人で小さく笑った。このまま世界は止まってしまうのだろうか、それでも構わないかも知れない。兄は久子と結婚し、新しい家庭ができる。美津子の居場所はますますなくなるだろう。小枝子はどこの誰とも知れぬ男の所に嫁に行く。手紙のやり取りはしてくれると言っていたけれど、夫や家庭を持つ身で、そうしげしげと会うのは難しくなるだろう。女学校は良妻賢母教育の一本道だ。そこから外れることは許されず、自由なただ一人の女であることは甚だ難しいだろう。ならば、自分はこの先に果たして生きていけるのだろうか。どこに行っても地獄しか待っていない。み仏の導いてくださる極楽、蓮のうてなは、もしかすると男にしか用意されていないのではあるまいか。女人には生まれつき罪があると言うのなら、男の支えに徹することをよしとしない女は、生きながら地獄にいるしか道がないのか。生きていても死んでいるのもさしたる差はないのではないか。川は流れている。愛する人と入水して心中した作家がいたという噂を思い出す。心中する相手はいないけれど、どうせ行く先が地獄なら、一人で入水するのも変わりはないかもしれない。

「美津子さん!」

 不意に後ろから抱擁された。聞き覚えのある声。豊の声だった。自分の肩を引き寄せる腕は、見覚えのある着物を纏っている。

「危なかった。足を滑らせたらどうするのですか」

「……豊さん?」

 美津子が呟くと、抱きしめる腕の力は強くなった。肩口に温かいものが触れる。豊の頭だった。

「……美津子さんの足音が聞こえたんです。朝のお支度かと思ったけれど早すぎるし、お勝手やお部屋にもいなかったので、まさかと思って。稔さんのことがおつらいのは分かりますが、どうか早まらないでください」

 豊の声は耳元で切々と響いた。そうして初めて、美津子は下駄の片足が川の水に浸っていることに気がついた。この川が自分にとっての三途の川になりかねなかったのか――その認識は背筋が冷える感覚とともにゆっくりと訪れる。自分にも、我が身を憂える思いとは別個に、まっとうに死を恐れる感覚が残っていたのだと思った。

「僕も、次の春には大学を出ます。そうしたら、下宿生活は終えて、どこかで働きながら暮らすと思います。その時に美津子さんがまだ僕を頼ってくださるなら、僕のところに来てください。幸せにできるかは分からないけれど、少なくとも、美津子さんを蔑んだりはしませんから」

 それは気ばかり優しく甲斐性のない豊らしく、実に消極的な言葉だった。稔が聞いたら、女々しいと鼻で笑いそうな言葉だった。それでも、美津子にとっては実の兄や親よりも、随分と救いのある提案に思えた。川の流れに浸っていた片足を河原に引き上げ、美津子は豊に向き直った。泣きそうな顔をした豊は年齢にそぐわず幼げで、場違いにも可愛らしいと美津子は感じた。そうしてようやく、笑みを形作ることができた。

「ありがとう、豊さん」

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