21 自由研究
稔の婚約はそれなりの速さで話が広まり、家を祝いのためにおとなう人も増えた。おかげで来客用の茶菓子が足りなくなったりと、美津子としては面倒なことも増えたのだが、単純に目の前の忙しさにだけ目を向けて体を動かしていれば、落ち込む暇もないのも事実だった。そんなある日、ごめんくださいと呼ばわる声に美津子がまたかと思いながら玄関を開けると、水際立った青年が立っていた。
「門木稔くんのお宅は、ここで合っていますか」
青年は優しくそう尋ねた。すらりとした洋装の長身に帽子を被っており、夕暮れも近い傾いた日が、すっと通った白い鼻筋と涼やかな目元に陰影を作っていた。美津子は唐突に現れた美青年に見とれてしまいそうになったが、我が家の客人だと辛うじて思い至って慌てて答えた。
「はい、その通りです」
「若旦那!」
美津子の後ろから、稔が飛び出さん勢いでやってきた。玄関に立った美津子を半ば押しのけ、ぺこぺこと頭を下げる。
「言ってくだされば、そちらのお宅までお伺いしましたものを」
「いや、久子さんを紹介したのは僕だからね。
ふと美津子が青年の後ろを見やると、洋装に
「美津子、我が社の次期社長とその奥様だぞ。すみません、愚妹が失礼をいたしました」
「……申し訳ございません、不躾な真似を」
美津子が平坦な声で謝ると、頭の上で青年がいやいや、と笑い混じりに言うのが聞こえた。
「そんなに敬われるほど、身分の差がある訳ではないのだから。なんならこれからは親族となるのだし、打ち解けてくださって構わないんだよ」
稔の手が外されて恐る恐る顔を上げると、こちらを覗き込む青年と目が合った。先程より顔が近く、斜陽はよりくっきりと白皙を照らしていた。
「天野啓明という。よろしく頼むよ」
ごく自然に伸ばされた指先が、美津子の乱れた髪をそっと直して離れていく時、美津子は頬が熱くなるのを感じた。
客間に啓明とその妻の文子を客間に通し、兄と父が応対をしている間、美津子はちょうど買ってきたばかりの水饅頭と玉露を用意した。いつも通りに縁側から客間に入ると、啓明はいち早く気づいて「ありがとう」と声をかける。
「気の利くお嬢さんですね。女学校も通っているとか、久子さんの良い話し相手になりそうだ」
「いやいや、なかなか縁談もまとまらぬ不出来な娘で。久子さんや若奥様のような器量や、気立ての良さもありませんで」
稔は余計なことまで話している。美津子は恥ずかしく思いながら退出しようとしたが、啓明は美津子に笑いかけた。
「これからは、女性も賢くあるべき時代です。きっとお嬢さんにも、よいご縁がありますよ」
啓明の笑顔は美津子の胸に焼けつくようだった。その熱に気づかれてはいけないと、美津子はそそくさと客間を出た。
客間の声が聞こえる距離でこっそりと立ち聞きしたところによると、啓明は先だっての春までは大学にいて、研究をしていたらしい。卒業とともに実家の会社に就職し、元々婚約していた文子とも結婚した。大学での研究は高く評価されており、実家の会社もゆくゆくは継ぐ予定だという。
文子は早々と啓明との縁談がまとまっていたが、妹の久子はのんびりとした性格であったので心配していたそうだ。そこに舞い込んだ、啓明の勤める会社の部下であった稔との縁談であり、久子にとっても良縁だということだった。非常に円満な新婚夫婦と、これからの幸せな結婚生活を夢見る兄夫婦の姿が眩しくて、美津子は居たたまれない気持ちで啓明と文子が帰っていくのを見送った。
(……どうせなら、もっといい着物を着ておくんだった……)
来客の相手をするのは自分ではないからと、地味な着物を着ていたのを後悔した。もしかしたら最初、啓明の目には女中に見えたかもしれない。いかにも値の張りそうな洋装を着こなす文子の前では、どんな着物も見劣りするかもしれないが、せめて少しでも啓明の印象に残っていれば。そう思った自分にはたと気づき、美津子は余計に惨めな気持ちになった。
(奥様がいらっしゃる方に、私はなんてことを)
自分は、なんてみだらな女だろう。そう思ってうち消そうとしても、胸に焼き付いた啓明の笑顔と、優しく長い指の感触は、いつまでも消えそうにないのだった。
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