20 摩天楼

「久子さんとの結婚が決まったぞ!」

 兄の稔が帰宅したと思ったら、第一声はそんな言葉だった。抑える気もない大きな声に、台所にいた美津子は手を止めた。まあ、と声を上げて、ぱたぱたと玄関に駆けていく母の足音が聞こえる。

「では、あちらのご両親も?」

「ああ、認めてくださっている。じきに久子さんもこちらに移りたいと言っていた」

「まあ、まあ、それはうれしいこと。久子さんをこんなに早くお迎えできるなんて。お部屋を用意しなくてはね」

 母は弾んだ声で言う。美津子は止めていた手を動かし、夕食の支度を再開した。今晩は冬瓜の煮込みを作る。兄は、昼前に出かけていったところだった。最近できたとか言う望楼建築に久子を連れていくのだと、聞きかじりの情報をぺらぺらと喋っていた。その望楼建築の中程の階に茶房があり、眺めを楽しみながら茶を飲める、云々、とも。どうやらそこで、兄と久子はなんらかの話し合いを行ったらしく、両家の間ではほぼ暗黙の了解となっていた結婚が確定したようだった。美津子は刻んだ冬瓜の皮を剥いた。鍋の出汁は煮えている。

「では、美津子の部屋を移しましょうか。あの子も嫁入り間近なことだから、多少手狭でもどうせ家を出ることでしょうし」

 母の声が聞こえてきて、美津子は勢い余って包丁を滑らせ、冬瓜を持っていた左手の親指を切ってしまった。一体いつ、自分は嫁入り間近などになったろうか。あれは建前で、本音は早く嫁入りして家に恥をかかせるなということだろう。どうやら久子の部屋は今美津子が使っている部屋になりそうだった。対して美津子の移動先になるのは、客間の控えとして使われている部屋のようだ。日当たりはよいものの今の部屋よりは狭くなるし、人が多ければ客間と繋げて使うので、その間美津子は自室にいられなくなる。最悪だ。

 家族の勝手な言動にいらいらして、なんなら今からでも一方的に部屋を移ってやろうかとすら思えた。左手の親指からは、血が玉のように膨らみ、やがて重みで垂れていく。料理に血が入ってはいけないと思い、水で洗い流した。この家には自分の居場所はないのだろうか。逃げ出したい気分なのに、逃げる先がない。声を上げて泣きたいのに、家族の意向に反して泣くのは見咎められる。歯を食いしばって静かにこぼれ落ちた涙は、血と混ざって流れていった。

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