18 蚊取り線香
美津子が女学校から帰って家の戸を開けると、ちょうど玄関で出かける支度をしていた兄、稔とかち合った。稔はいつもの仕事の時の草臥れた洋服ではなく、一張羅の三つ揃えの洋装を着ていた。下駄箱の上に置かれた蚊取り線香の煙がか細く揺らめいているのに、仰々しいジャケットはどうにも暑苦しく見えた。
「お出かけですか、お兄様」
「ああ、美津子か。久子さんと出かけてくる。夕食には戻る」
「そうですか。行っていらっしゃいませ」
淡々と答えた美津子に、稔は面白くなさそうに眉をひそめた。わざとらしく革靴のかかとを土間に打ち付けてコツコツと鳴らす。
「まったく、おれの縁談がまとまりそうだと言うのに、お前ときたら断られてばかりで、情けないとは思わないのか」
「女学校もまだ残っていますから」
「女学校など、最上級にまで残るのこそ不名誉だろう。行き遅れだと顔に書いて外を歩くようなものだ」
小馬鹿にしたように言う稔に、美津子は内心腹が立った。この兄は昔から美津子のことを可愛げがない女だと常々言っていたが、自分が見合い相手の家に気に入って貰えたとわかると、鬼の首を取ったように美津子に縁談が来ないのを嘲るようになった。美津子は、自分があれこれ言われるのはもはや構わなかったが、先の兄の発言には、女学校で最上級にいる小枝子のことまでも馬鹿にされたような気がした。とはいえ、言い返すのも得策ではないので黙っていると、兄はふんと鼻を鳴らした。
「悔しいなら女らしく泣けば良いものを」
「泣いたって何も解決しませんもの」
「これだからお前は行き遅れなんだ」
捨て台詞を吐いて、稔はぴしゃりと戸を閉めた。美津子に来た見合い話は、比較的早めの段階で先方に断られることが続いている。対して稔は、いくつかの見合いを経て久子という娘と交際を始めてからいうもの、まるですでに妻帯者であるかのように振る舞うようになった。美津子は久子を見合いの日の一度きりしか見たことがないが、肥立ちのよさのわかる肌艶をしており、いかにも従順そうで、十人並み以上には器量よしだった。食が細く肉付きの悪い、それでいて反抗的な自分とは対照的な、いかにもあの兄が好みそうな娘だと思った。美津子はため息をつき、それとともに蚊取り線香の先が灰になってぽとりと落ちるのを見た。
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