第78話.意識干渉
リュクスは雑貨屋の前で適当な荷馬車を待つため、路地に差し掛かったところで、不意に伸びてきた手に口が塞がれた。
手を振り払い暴れようとしたら、頭が殴られた衝撃に意識が遠くなった。
***
カーシュは、崩れた瓦礫の山の間を歩いていた。瓦礫といっても、人の背丈以上の石が転がるのは、人力を超えた何かの作用で起こったからだ。
実際、それは人ではない化け物がここを壊したせいだった。
いくつもの瓦礫を乗り越え、または隙間を通り抜けると、足元には平たく整えられた石床が見え隠れする。そして周囲を見渡すと、崩れた階段状の観覧席の名残がみえる。
半壊している天上部分のひさしから、灰色の空がのぞく。
“きんいろ、ぎんいろ”
その言葉が妙に気になる。調べようと思ったら足が自然にここに向いていた。
先ほどからちらつくのは、薄い金色の髪の少女の姿。けれどそれを思い返すと、理由もなく怒りとイラつきがこみ上げる。
――おかしい。
カーシュは拳を握り締める。記憶がまだらだ。こんなことはあり得ない。その不快の素をわざとたどれば、更に記憶が消えていく。
――場所のせいだろうか。引っかかった場合は、必ずそこに何かがある。だから足を運んだ。
街から馬で一時間ほどの場所、ここはシルヴィアの闘技場だ。過去に自分が化け物になり、そして化け物からやり直した場所。かつ、と足先が瓦礫を蹴る。
――きんいろ、ぎんいろ。――つい先ほど殺した男のセリフだ。
だが、何のために。
任務のためだ。けれど、誰のために?
顔がこわばる。自分の記憶の中に入れない。
金色はアレスティア人の髪の色。彼らが誇る輝き。銀色はシルヴィア人の髪の色。だが、やつらはそれを誇っていない。
――そうだ。あの観覧席で、奴らは並んで座っていた。シルヴィアの貴族はアレスティア人への贈答品として、この闘技を催していた。化け物を飼い、奴隷と戦わせる。時には奴隷を捧げる。
自分は、その奴隷の一人だった。
観覧席を見上げると蘇る感情。
助けなければいけない。美しい少女が不安そうに、自分を心配している。そのことを思い出すと不快になる、けれどもう少し考えようとすると頭痛までも走る。
誰を? 自分にそんな人間らしい感情があったのか。
焦燥が募る。自分の中の何かが騒ぐ。化け物が暴れる。なぜ、だ。
「……くそっっ」
体中に痛みが走る。
(――大人しく、してろ!!)
叫んだ時に、ふっと意識が戻る。碧の瞳と、碧蒼の瞳――。
金色、銀色の髪。アレスティア人とシルヴィア人、その間の碧蒼の瞳の少女。
化け物に怯えている。でも自分を心配もしている。
心配などしなくていい。こんな俺を。
そう思っていたら、銀髪に繋がれた鎖で首を引き寄せられていた。そうしながらも彼女は死にそうな自分を心配している。
銀髪が思い通りにならない少女に、怒りをぶつけている。俺が助ける、助けてやるから。
助けろ、助けるために――。
碧の瞳の女性の涙がこぼれる。
(あなたを、泣かせたくなかった)
あの時も、自分の心が操られて――彼女を助けられずに泣かせてしまった。
そして今も捕らわれている、今も。これは、この感覚は、あの時と似ている。
金色はアレスティア人、銀色はシルヴィア人。殺した奴は、そいつらに雇われていた。
(――ティアナ?)
その名を思い出すと、理由もなく嫌悪がわきあがる。
(おかしい。自分に感情があるなど)
恨むような記憶がないのに、ただその人間、その名に嫌悪感が沸き上がる。なのに、愛しさ、壊したくなるほどの独占欲も沸き上がる。
自分の中の嫌悪の感情を押し殺し、無視して彼女のことを考え続ける。
守ると誓ったはず。不意によみがえるのは、あの時の誓いだ。
「ティアナ」
一度名を口から紡ぎ出す。
「ティアナ……」
もう一度こぼれだす名に愛しさがこみ上げた。
寂しげに笑う顔、仕方がないわ、と言いながら微笑み伸ばしてくる小さな手。指先の爪は短く綺麗な桜色。皮膚は柔らかく、温かい。握ったら壊れるのではないかと驚くほど華奢で、そう言ったら笑われた。
彼女を厭うはずがない。
世界で、もっとも、愛した人だ。
あの彼女の娘だからじゃない、守れと頼まれたからじゃない。
寂しげで、それを隠してそれでも笑う少女。自分に頼らなくてもどかしくていたのに、少しずつ笑うようになって、心を許してくれるようになった誰よりも優しく愛しい女性だ。
「ティアナ」
もう一度、名を呼ぶ。
神々は、過去の結末も知っている。それを防ぐために伴侶となり永遠に傍にいると誓約を結んだ。神はそれを許したのだから、責を果たせと捻じる。傍に連れて行けと神に命じる。
指先にその力を込めて、扉を描く。行先は彼女の元。
――彼女を逝かせないためなら、何度でも自分は生き続ける。
自分があの手を離すはずがない、絶対の絆で繋がれているはずなのだ。
この心は偽りだ。作られたもの。感情を、反転させられた。
あやつ、られた。……やられた。
まだ残る心を操った縛りを無理やりひきちぎる。石床に汗がぽつぽつと落ちる。カーシュは空を振り仰ぐ。
「くそっ」
捕われた、ありえないと思っていた。それほど強固に自分の精神を強化していたのに。容易に彼女はそれが行えた。その魔力、能力に戦慄で肌が泡立つ。
師団で最も優秀な影と言われていた自分が、容易に操られた。
仕上げに書いた扉の取っ手を握り開く。違う空間が現れ自分を包む。迷わずそこに足を踏み入れた。
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