第60話.碧蒼の少女
「――呪いか」
上から降ってきた男の声、呟いただけで近づいてこない。
ただ観察されているようだった。岩肌は冷たく、熱に侵された体には心地いいはずなのに、むしろ熱を奪い命も削っていくようだった。
体中が心臓のように脈打ち、炎を流し込まれているように痛い。けれど叫ぶ気力もなかった。
(ここは、どこだ?)
目を閉じると記憶がよみがえる。
――確か、そう、あの化け物と戦わされた。
まだあれの余韻が残っている。この静かさが嘘のようだ、ここは死後の世界だろうか。
***
煩い観衆、化け物よりも醜悪な人間たち。
与えられたのは槍一本。
異世界から来た奴隷の自分が勝つことは期待されていなかった。醜く抗い、逃げまどい、そして命乞いをしたうえで化け物に喰われることを期待されていた。
――この醜い世界で、最も醜悪な儀式だった。
シルヴィアの闘技場。奴隷制が残るこの国では、異世界からの人間を奴隷とし化け物と戦わせる。
賭博としても成り立っており、それを裕福層は特別席で下層の人間は最下層で楽しむ娯楽。
自分が抗えば抗うほど周りを囲む観衆は興が冷めると非難の声をあげる。それでも必死で振り下ろされる化け物の棘だらけの腕にしがみつき、よじ登り、貧弱な槍を目に突き立てた。
絶叫する化け物、その爪に引っ掛けられて落ちる瞬間、垣間見えたのは観衆席。
ぐるりと囲む円形の観衆の中で天蓋付きの立派な席に一人の子供がいた。
体が凍り付く。
それは、探していた少女じゃないかと。
『お兄ちゃん、ごめんね』
声が頭の中で響く。
『私、行かなきゃ』
行くな、行くな、行くな。
なのに、その願いは通じなかった。
観衆の騒ぎ立てる声に、現実が戻ってくる。
目の前には化け物。それ越しに自分がみているのは、金髪に碧蒼の目の少女。
全く似ていない。
彼女は、黒目、黒髪の少女だった。その目は決意し諭しても意思は翻えらなかった。
けれど今、少女の目が恐怖に満ちていることに気が付いて、記憶が塗り替えられていく。
当たり前だ。
少女は、人が化け物に喰われるところを見せられているのだ。
人が喰われる場面をこんな少女に見せること、それは戦わせる以上に残虐な虐待行為だと憤りが胸を占める。
日本にいた少女の残像が重なる。
幼かった声、おにいちゃんと呼ぶ声がいつも頭の中で絶えない。
(見せたくない、こんな醜いものなど)
この少女にすべて見せたくなかった。この世の醜いものから隠してやりたい。
薄い金髪、碧蒼の目はこの世界にないもの――異世界の少女だ。
その横の銀髪は壮年の身なりの良い男、シルヴィアでは上流階級にいるのだろう、少女はその横に座らされていた。
首に輪をつけられていた。首輪、だ。
――彼女もまた、自分と同じ。奴隷として飼われているのだ。そう理解した。
憤りが胸をしめる、怒りで頭が沸騰する。熱くなる、頭も顔も、そして手も。なぜ、こんな少女が、こんな目に。
助けたい、殺してやりたい、その男を、この場にいる全ての奴らを。
化け物の目に突き立てた貧弱な槍を抜く。木の柄は半分が欠けて、むき出しの棘だらけだった。咆哮をあげて暴れる怪物に何度も突き立てる。
片方の目、そしてもう片方の目。両方を交互に。
少女が見ていたのは感じていた。残虐行為を見せたくないと思っていたのに、自分が何かに乗っ取られたかのようにそれを繰り返していた。遠くから眺めているようだ。
殺してやりたいのは、銀髪とここの醜悪な観衆、この世界の人間の皮をかぶる本当の
――そして、目の前の化け物は動かなくなっていた。
青い尾に、ダイヤ型の固い甲羅が突き刺さるようにいくつも並んでいる。
羽は穴だらけだった。コイツも相当戦わされた、そう思った瞬間だった。
化け物の姿が揺らぎ、消えていく。
まるでフォログラムのように空中で無くなり、残されたのは貧相な男の死体だった。
まさか、と思う。そこに化け物の姿はない。ただ目がえぐられて、その穿った穴から頭が壊されて潰された裸の男。
不意に身体に激痛が走る。
ギシギシと己の骨が音を立てる。その痛みに叫んだ時に聞こえたのは、これまでと同じ化け物の咆哮だった。
見下ろした自分の手は、青く、鱗の生えた棘だらけのもの。
倒したはずのもの。それは自分の体となり、再び同じものになろうとしていた。
膨張して巨大化して、体の組成が変わっていく、痛みが意識を繋ぎとめている。
観衆が小さくなっていく。激痛に何度も叫ぶたびに、先ほどまで聞いた咆哮が響く。
瞬間、絶望と共に理解した。
――呪いだ。魔法があるこの国では、それが存在している。
この竜の姿をした化け物を殺せば、その殺したものがまた化け物になる。
今自分が殺した化け物は、元は人間で。今自分は、その化け物になろうとしている。
(どこまでも愚かで、どこまでも馬鹿だ)
また、苦しみが始まる。化け物に殺されれば楽に死ねたはずなのに。
『――お兄ちゃん、私は行くね』
もう人間だった手も、足もない。先ほど何度も槍で突き立てた化け物の手足が見える。
『私は聖女だから、世界を助けに行かなきゃいけないの。ごめんね』
そう言って飛んだ少女は、落ちた。屋上から伸ばした手は捉まえられなかった。
身を乗り出して、闇夜に吠えた。
そして追いかけて、自分も飛んだ。彼女を探しに来たはずなのに。
(俺は、何もできないのか?)
探しに来たのに、見つけられずに。いつも置いて行かれてばかりで。
そして今、目の前の少女も囚われたまま、恐怖に怯えさせている。
(すまない)
――助けてやれなくて、すまない。
(済まないじゃ、ない)
なにも済んでいない。
何も、成していない。
化け物の手を伸ばす。鋭い折れたかぎ爪、触れた瞬間には、この手は少女を突き殺してしまうだろう。
楽しんでいた観衆が叫び出す。暴れて人間を殺し始めた化け物から逃げまどう。
そんなものはどうでもよかった。倒してやりたい、殺してやりたい。そんな感情は消え失せていた。
ただ、壊す、目の前のすべてを。
本能だけが全てを支配していた。
(そうだ、俺は銀髪を――)
そう思った瞬間、目が捉えた。奴は腰を抜かしながらも従者に左右を囲まれて通路を逃げる最中だった。巨大な手を伸ばせば、たかが指一本分もないほどの小ささ。
(愚かな)
奴らがかけた呪い、馬鹿な人間をあざ笑う。
強大な力を与えて、自分が殺されることに気がつかないのか。全身を襲う痛みと灼熱感などどうでもよかった。いずれコントロールされていたのかもしれない。だが、今は自分が優位だ。
ふと見ると、もう片方にも男がいた、金髪だ。長く波打つ髪がゆるがえる。赤い輪がそれを包む。姿が揺らぐ、半身が消えていく。
置きざりにされた少女と銀髪がいた。
銀髪と目が合う、這いながらこちらを振り返りあおぎ見る顔、シルヴィアは自分達の美しさを一際誇る。だがその性根は最悪で、むき出しの歯に、歪んだ頬、怯えた目、すべて醜い性格が顔にあらわれていた。
手を降ろせば、銀髪の男がその中でつぶれた。簡単だった、ぐしゃりという音さえもない。
蚊を潰したような感覚だった。その隣の金髪は完全に姿がない。
そして、一人残された少女は、顔に何の表情も浮かべていなかった。泣きもしないし、怖がりもしない。ただ見上げてくるだけだった。わかっていないのではない、全ての感情が壊れてしまったかのようだ。
それでも伝わってくる、微かな怯え。
(見せてしまった)
人が死ぬ場面など見せたくないと思っていたのに、今それをした。
残ったのは、醜い化け物の自分。
(逃げろ)
逃げてくれ。
その隙を与えるように、伸ばそうとする手を堪える。彼女から目が離せない。全ての観衆はもう逃げた。あとはその娘だけ。
じっと見上げてくる彼女は、自分の瞳の中に何かを探しているかのようだった。
どうするか、と人間のわずかな心が思う。
助けられなかった少女、この少女も助けられないのか。
わからないままに、化け物の手を指しだす。
目と目が合っている。自分を恐れず見ている小さな手がそっと動く。
それは確かに自分へと伸ばされた手だった。碧蒼の目は碧から蒼へと変わる南の海のような瞳だった。
(
それとも、
自分の化け物の指と彼女の手、二つが重なろうとしていた。
不意に、彼女の懐から白い光があふれだす。そこから転げた翠の石が二人の間に割り込む。
石から光が発される、真白の光はまるで粛清のように清らかで、化け物になった自分をも包み込んでいた。
その瞬間、爆発が起きる。
(違う、爆発じゃない。――何かの強い力、だ)
彼女が吹き飛ばされる。
手を伸ばす、助けなければと思うのに。
けれど、白い光でもう何も見えない。
(あの時と、同じ――)
この光は、日本からこの世界に来た時と同じものだった。これに包まれるとまた移動してしまう。
この醜悪な世界、人間たちから少女を救えない。
ここにこの少女を置き去りにする。
(待て……、まだ行くわけにはいかない)
この世界は、残酷だ。少女を救わないといけない。
そう思うのに、自分はもう化け物で。
碧蒼の瞳の少女の懐から、翠のペンダントが吹き飛ばされる。外れたチェーン、それに二人で手を伸ばす。
自分の方が速かった。風に泳ぐ鎖、石を手の平が掴んだ途端、灼熱の痛みに襲われる。
意識はそこで遠のいた。
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