第59話.彼女の望み
カーシュは気配を消し、誰にも気がつかれずに裏口から外に出た。
主の奥方のお産だ。屋敷中で息をひそめて眠らずに、無事を祈りざわめく気配が満ちている。
けれど、外は対比するように虫さえも音をひそめ静寂に包まれている。
カーシュは気配を消して、そっと影に近づく。
壁に身を寄せていた男の背後に回ると、拘束と同時に首に腕を巻きつけ、耳孔に鋭く細い金属を差し入れる。
「動くな」
先端は針のように尖らせている。手のひらで握り締めて、少し奥へと動かせば一瞬で耳孔を、その先まで貫く。カーシュの声には感情がない、冷ややかでもない、ただの仕事だから。
触れていなくても耳の中を通している金属の冷たさを感じるのだろう、男は恐怖して早くも足を震えさせ始めた。
「どこから来た? 誰から、何の命令か? 答えろ」
「……ひ」
男は自分より背が低い。筋肉もない、これほど簡単に拘束できることからも素人だとわかる。
(なんのあてにもならない)
ただの使い捨てだ。だとしたら、生かしておく意味も無用。
「娘だ、金髪の。……さ、さらって来いと言われた」
「誰に?」
「と、となりのカークの、まちの酒場で。前金を、わたされた。み、身なりは良かった。ただつれて……森につなげば、いい、と」
「そうか」
「か、かんたんだから。そ、そ、それだけするつもりだった。ほかには、何もしない、つれてくだけだ。……は、はじめてだ、はじめて会ったやつだ」
カーシュは耳にもう少し金属をすすめる。まっすぐで、一切ぶれはない。けれどそれを気配で察したのか、ますます男の足の震えは深くなる。
「なるほど」
鼻につくのは、酒気と尿臭。いまここで漏らしたのかもしれないが、既に服に沁みついているのだろう。
酒場で飲んだくれているごく潰しに、下手な仕事を頼んだのはよほどの馬鹿か試しか。
こいつは殺しをしたことがない、だが金に困ればそれなりのことはする。娘を攫って来いと言われて、それだけだと本当に思ったのだろう。
金の気配はない、すでに酒に消えたのだろう。
「ソイツらは、どこの国のものか」
「わ、わからない」
「わからない?」
「そ、そうだ。きんぱつに、ぎんぱつだった。ずきんをかぶり、目は見えなかった」
この世界は国ごとに髪と目の色彩が決まっている。だが、髪の色だけでは不確かだ。しかもそれだとわかりやすい、不自然だ。隠していたのかわざと見せたか。
「アレスティア人とシルヴィア人か?」
金髪はアレスティア人、銀髪はシルヴィア人。
「そ、そうかも、たぶんそうだ」
あてにならない。むしろ疑ってもいい。もとから情報になるとは思っていない。
「一つ言っておく。三流を雇う奴は所詮、三流だ」
差しいれた金属に力を込める、そして耳孔に沈め頭を貫く。それで終わりだった。
男の身体を腕一本で支えて、カーシュは金属を引き抜いて検分する。
小さな羽虫が指につく。虫に擬態した魔法具。
盗聴器のようなものだが、これは人間の耳に寄生する。入れられた人間は気づかない。意識があるまま、いつの間にか、操られている。
あんな小物。だが、操ればティアナを攫うこともできた。
彼女が、一度小屋で襲われたこともウィルから聞いていた。魔物が襲うのはわかるが、それだけじゃない。確かに暗躍している者がいる。
(アレスティアの再興を望まない者、もしくはディアノブルの司を手に入れたい者)
それから彼女の容姿に執着する者。
これらの条件に関係なく女として欲しい者。
ティアナが幼少時に攫われた理由はわかっていない。けれどそれに誰かが関わっていたのは確実。
彼女がこの世界に戻って来たことに気づき、すでに手に入れようと動き始めた者たちがいる。
再興しようとするアレスティア人が先だって手に入れようとしている。それとも不動大陸の四国――。協力的なトレスさえも疑わしい。
そして地下世界のフェッダは、アレスティアに侵攻したにもかかわらず、城が落ちたあとは執着を見せずにすぐに手を引いた。
(あの動きの狙いは、ティアナを手に入れようとしていた可能性が高い)
一国を落とすほどの手勢を投入しても、手に入れる価値はある。あの時手を引いたのは、その目的が果たされなかったからとも思える。
カーシュは虫を死体の耳に戻し、囁く。
「街の北へ行け。そこに墓場がある。自分の死体は自分で処理しろ」
ふらふらと死体が歩き出すのを冷めた目で見つめた後、背を向ける。街の北には大抵墓場がある。闇の神シバラの領域だからだ。それはこの街でも変わりがない。
自分は
その主はもともと使い捨ての飲んだくれに期待はしていなかっただろう。ただの様子見。ではなんでそんなことをしたのだ。
――こちらの力量をはかるため。
(今後も構ってくる)
次はもう少し使える奴を送ってくるだろう。ソイツがもう少しマシな情報を持ってくるのを待ち追いかけるか、尻尾を出すまで根競べか。
負けるつもりはないが、恐れているのはティアナが今の行為を知ること。
こうやって相手を殺していることを知れば、今度こそ自分を厭む。
息を吐く。何を恐れているのか。
(それでいいのに)
もともと、血に濡れ汚れている手だ。綺麗になりようがない、汚れ、更に落ちていくしかない身だ。
だが、彼女は清いままでいて欲しい。
これからあらゆる障害が彼女を傷つけていくだろう、けれど彼女は他者を傷つけない身であってほしい。
誓約を結び、婚姻を迫っているが彼女が自分を愛してくれるなどあり得ない。
――蔑み、恐怖し、罵倒される。そんな日も近い。嫌悪の目で見られることもわかっている。容易に想像できる、その時の瞳を想像するだけで、胸に痛みが走る。
なのに、離れられない。そうされても、苦しみながらも守りたい、と願う。
わずかに手袋についた血を無表情に見下ろす。血の痕跡を己に残したのは、失態だ。
完璧に、痕跡を残さず相手をやる。それがわずかに乱れたのは調子が悪いのか。
過去がちらりとよぎる。
何の感情も湧かずに、人を殺せるようになったことに後悔はない。選んだ道、得た力、押し殺す心。
血がついたグローブを乱雑にポケットに入れ、額に手をやり目をつぶる。顎をあげ、壁に身を押し付ける。
(……)
疲れた、などは思わない。だが、何かの空洞が胸を満たす。
彼女は納得していないが、守られるのを拒否しながらもこちらを気遣う優しい甘さがある。わずかに息を吐いて、その甘さにどうしようもない不安と恐れが募る。
この汚れた手で、彼女のもとに戻る。やがて彼女は、自分に気を許してしまうのではないか。
無理やり契約を押しきったことに後悔はない。厭われても、ずっとそばにいる。
そう思っていたのに。それと反する行為を、感情を持たれることに恐れを抱く。
――似ている。
碧蒼の瞳と、翠の瞳。瞳の色は違うのに。
ティアナの碧蒼の瞳は、角度や光の下では、常に色を変える。
けれど眼差しを伏せた時、柔らかい顎の輪郭、笑った時に細める眼差しの穏やかさ、声の響き、凛とした気配の強い意思を宿した眼差しが似ている。
彼女たちは、常に人を救う手だ。そこも同じ。
どんな相手でも助けることにためらわない。
お人よしなだけでも、優しいだけでもない。芯がある、自分というものを強く持っている。
自分は人を、魔獣を殺し続けて、強さを得たと思っていた。
だが本当の強さというのは違うのかもしれないと気付かされたのは、彼女に出会ってからだった。
(――あなたは、こんな汚れた手で大事なモノに触れても許してくれるのか?)
***
「――カーシュ。お願いがあるの」
彼女に頼まれごとをされたのは、初めてだったかもしれない。押しつけがましくない、いつもするりと入ってくる声。あの時もそうだった。
自分は任務で失明し治癒魔法師だった彼女の治療を受けた。その後の経過観察で彼女に診察を受けていた。
それが終わり、彼女は自分の頬に添えていた手を離さないまま口を開いた。
内心驚きながらも、ちらりと視線を向ける自分に、わずかに杞憂のような表情を浮かべて静かに語りだした。
「この子のこと、あなたに頼みたい」
膨らんだお腹をそっと見下ろして彼女はそう言った。
「なぜ、俺に?」
「あなたが一番強いから」
その時だけは、はっきりと告げた。美しい翠の瞳をただまっすぐに向けてくる。
「もちろん。団長のあの人はダントツに強いし、他のみんなもそうだけど。でも私やレオン、少しずつあの人の抱えなきゃいけないものがでてくる。全部守ろうとするし、それができる人だけど――」
小首をかしげて、遠い目をした。
「この子を、一番に優先する人にあなたになってほしい」
その時の感情はなんともいえない。わずかに胸が熱くなったような、こみ上げてくるような、ただこの人をずっと見つめていたいとそう思わせる目だった。
過去にあなたを守れなかった。
その償いをさせてくれるというのだろうか、とその時は思った。
「過去のことは関係ないよ。ただ」
それを読んだように彼女は口早に滑り込ませた。
「あなたは、守るものがあったほうがいい」
「俺には――」
よぎる痛み。遠い過去、捨て去った記憶。お兄ちゃん、と呼ぶ声。もう忘れていたというのに。
「俺には、そんなことができる資格がありません」
淡い笑みを浮かべた顔は綺麗だった。
「資格とかなんてない。この子のため。そして、あなたのため」
「勝手な言い分だけど。この子はあなたの
「……」
「あの人もそう。師団があって私たちがいて。それで強くもなるし、だからこそ抑止力があって、加減ができる」
「無茶はするな、ということでしょうか?」
「端的にいうと、そう、かな」
それに滑り込ませる。
「――俺の、この手は汚れている」
手袋をはめていても、隠れない。どれだけ手を洗っても浸み込んだ血。
どれだけの命を奪ったのか、もはや人間ではないものになっている。
彼女のお腹に宿る新しくて清いものに近づけるというのか。
けれど、ふさわしくない。汚してしまう、自分も団長でさえも許さないだろう。
「全然。汚れてなんかないよ」
彼女は手を取り、そして自分のお腹へと当てさせる。膨らんだ命は温かく、そして動いた。
「喜んでる」
彼女は目を細めて朗らかに笑った。呆然とする自分に「ね?」と同意を求める。
「責任とかは負わないでいいから。もしもの時は――あなたはこの子の傍にいて欲しい」
それにね、と続けた。
「この子もあなたを守るから。大丈夫だよ」
彼女は知っていた。
他の奴らは、何かを持っていた。守るもの、信念、よりどころ。
けれど自分には何もない、空っぽだった。
だから――、一番大事なものを、くれたのだ。
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