第55話.シチューと会話
カーシュは廊下に出てきたリュクスに目を向けた。彼の気配は氷のようだ。薄く張り巡らせられていて、それらに掠めると一気にすべてを悟られてしまう。
自分の周りは油断ができない人ばかり。ウィルもそうだけど、これから向かうトレスの王宮もそう。
(魔物がいるし、生きるか死ぬかの世界だものね)
日本は平和だった。でも病院も戦場だった。自分の安息の地はどこに?
(一生ないのかもしれない……)
ため息をつくと、無表情な彼がわずかに案じるような怪訝そうな表情を浮かべて近づいてきたので、首を振る。夜勤明けの寝ていない状態だと、ややアンニュイになる。
台所に降りると影のように彼もついてきた。足音も立てない、ただリュクスにわかるように気配を消していないだけ。
裏口にはウィルが背を預けて、外の気配を探っている。二人とも交替で見張りをしてくれてるんだろうけど。護衛を頼んだと言っても、ここは評議長の家。押し入るものはいないだろうし、心配なのは魔物だけ。
彼らならば、休んでいても気づくはず。
「時間がまだかかるから、休んでいてもいいのよ」
ウィルがちらり、とリュクスにもの言いたげに目を向ける。
「それはこっちが考えること。アンタ、ずーぅっと寝てないだろ」
「助産師はそんなもの。お産になると目が覚めるの」
確かに、あちらの世界では夜勤明けだったし、あれからまともな夜は過ごしていない。そして今晩も眠れないだろう。今は十九時。
エレインは経産婦で早産。経産婦は一度赤ちゃんが通っているから早く進むし、今回は早産で小さめの子なので普通は早く産まれるはずだけど、今回は逆子なのでいきませられない。陣痛も弱いみたいだし、時間がかかるだろう。
それに今は、胎児は足が先進しているから、お尻が先進するように胎位を変えてくれるまでなるべく時間をかけたい。
最後までいきむのを我慢してもらって、赤ちゃんの全身が降りてくるのを待つ。たぶん、一晩はかかる。
「申し訳ないけど、奥様に蜂蜜のお湯割りをお願いしてもいいですか?」
かまどの前に立つ赤毛の女性に話しかけると、振り向いてリュクスを見て目を丸くする。
「ああ、あんた。魔物が出た時に助けてくれた子だろ。随分綺麗な子だって噂になってたよ」
「…噂」
ウィルが嫌そうにリュクスを見る。ほら見ろ、という視線にはわざと無視した。仕方ないじゃない?
「うちの息子はここにはいないけどね。この街は男が余ってるからどうだい?」
「遠慮しておくわ。今回はお産を手伝うだけ。それで、出ていくから」
「あんたいくつだい? 名前は?」
詮索好きだ。けれどこういう台所を握っている女性を敵にしてはいけない。
迷ったけれど、正直に言う事にした。昔ニルヴァーナに同行して訪ねたから、あとでつじつまが合わないと困る
「リュクス、十八歳。でも医学の経験は積んでいるわ」
リュクスが自信を込めていうと、彼女は笑う。
「産んだ経験は?」
さすがにリュクスは気まずそうに笑った。顔を赤らませるほど初心ではない。日本で働いていた時にも聞かれる質問だったし。
「まだ。あくまでも取り上げた経験ね」
「まあ焦ることもないさ。候補もいそうだしね」
ちらりと控えている男たちに順に目を走らせるから、リュクスは何も言わず首をふって否定する。リュクスの斜め後ろ、テーブルに腰を軽くかけたウィルが笑う。
カーシュはウィルと交替して勝手口に既に控えていた。座るウィルの見ている方向は屋敷へとつながる内階段。
二人とも常に出入り口を見張っていることにリュクスも気づいていた。
けれど次の台詞で固まる。
「両方ともいい年齢だろ。ウィルとカーシュだったね。強そうだし体格もいい、いい相手じゃないか」
「ええと……」
「マーサだよ。さっき二人と話したんだよ」
……いつのまに取り込まれていた? いつの間に仲良くなってんの?
ウィルが片頬だけあげて、リュクスに親指をたてて笑いかけてくる。
マーサは棒で茹でジャガイモを潰しながら尋ねてくる。どんどん話題が彼女のペースで変わっていく。
「いつ頃、産まれそうだい?」
これは奥様であるエレインのこと。屋敷の召使いの話題だろうし、隠すことじゃない。
「逆子だから、無理はできないわ。赤ちゃんが完全に降りるまで待つの」
彼女は「大変だ」と言って肩をすくめる。
「あんたも長丁場だね。兄さんたちも座ったらどうだい?」
「私たちがここにいてもいいの?」
魔法士として、街から出ていくように言われていたので、いいのかと確認する。
客間に通すようにと言われていたが、客人として丁寧にあつかってもらえるわけがない。ここは使用人たちの食堂だ。
マーサは今度はシチューの
「あんたが魔物を呼んだとは思えないし。何よりそこの強そうな男は、魔物から守ってくれそうだしね。うちは構わないよ」
そう言って彼女は、リュクスとウィルの前にシチューを置く。もう一つの器も置くと、カーシュに呼び掛ける。
「ありがとう、いいの?」
「うちの客人だしね。力をつけてくれよ」
「俺はいい」
「食べる五分の間に敵が来るのかい? その五分を無駄にして、一晩空腹で持つんだろうかねぇ」
マーサの方が上手だ。一瞬だけ固まったカーシュがウィルに目を向ける。食べたら見張りをかわれ、という圧をかけているのをリュクスも感じた。
「やだよ。俺はゆっくり食べるね」
「私は、すぐに食べ終わるから。この職業をしてると早食いになるの」
昼休みとか、十分で食べてきて、とかよくある。カップラーメンにお湯を入れた途端に、ナースコールで呼び出されて二時間放置とかもよくある話。カップラーメンにした日に限って呼ばれる、というジンクスもある。
「俺と競争する?」
「しない」
ウィルの軽口は少し心に余裕を生ませる。食べながら今後の方針を考えるのはいつもの癖。その隙に頭がまとまる。それもあるし、今ここで食べておかないと、もう抜けられないから。
カーシュは、裏口が見える位置で、かつリュクスを庇うように隣の位置に座って食べ始めた。
そして、あついシチューをほおばるリュクスをマーサはまだ見ている。
「何?」
それが見定めているようで気になる、嫌な視線じゃないけど。
「細っこい体だね。何を食べてきたんだい?」
たしかにマーサは骨太というか体格がいい。トレスの男性は身丈も高いし、体格がいい男性が多いけど、女性も大柄が多い。でもリュクスの身体は日本人女性の中では標準体型だったと思ってるのだけど。
アレスティアの中では少し小さめだったけど、子どもの頃だったし。
マーサはリュクスを見て、嘆かわしいというように大げさに肩をすくめている。
「じゃないと、その兄さんらの子供を産むときは大変だよ」
「はっ?」
リュクスはむせた。ちょうど口に含んだニンジンも熱くて、行儀悪くはき出しそうになるのを手で押さえる。
(熱い、熱い!!)
口の中が火傷する。苦しい。
「他人の世話をしてる場合じゃないだろうに」
遠慮なくシチューを食べていたウィルが、マーサの台詞にとうとう口にして笑いだす。それどころか、リュクスを横目で見て、また吹き出すように笑う。
「だってさ」
横のカーシュは訓練された兵士のように行儀よくシチューを食べている。彼は食べ方がきれいだ。けど否定はしない。彼は違うものは違うという。
なぜ言わない、なぜ否定しない!?
「何とぼけてんだい。この子が細いのはアンタらの甲斐性がないからだよ。もっと食べさせないと」
カーシュがちらりと顔をあげて横目にリュクスを眺める。そして黙考したあと頷く。
「――善処する」
リュクスは匙を置いて、立ち上がってテーブルを叩いた。
「結構よ! 私が細いのは私がそうしたいから。大体、なんであなたたちの子供を産むのよ!」
「まあ、そういう可能性も……ないだろうけど」
ウィルが匙をふって、からかうのを続ける。目が面白がっている。
「ゼロよ、ゼロ」
しかも相手は複数。マーサの基準がおかしい。彼らもおかしい。
「別にどっちか決めなきゃいけないわけじゃないだろ。どっちもいい身体をしてるし、両方キープしておけばいい。問題なのはアンタの細さだよ」
そうだった。魔物と常に戦う騎士の国トレスのよい男の条件は、強いこと。それは体格がいいことが最低条件。筋肉、鍛えた体。
二人は船乗りや荷運びのような男たちのように上半身の筋肉は発達してないが、気配が鋭い。
戦う国にいるせいか、女性のマーサにも伝わるみたい。上着を脱ぐと、ピンと張った背筋や腕の筋肉で、服越しでも鍛えているとわかる。そして何よりも強そうだ。
(何よ、彼らの所属する魔法師団って、戦闘集団? 筋肉野郎なの!?)
アレスティアの魔法士は、ひょろいのが多い。
でも、女性が少ないこの世界は多夫制だ。結婚せずに幾人かの男性の子どもを産む女性も少なくない。でも日本の常識に染まった自分は、それを異様と思ってしまうけど、ここではおかしくない。
あちらの世界でもそういう国はあったはず。ただ感染症とかを考えると、そんな怖いことはしたくない。
(でも、二人とも体格はいいのよね……)
トレスでは、受け入れられそう。自分は……そう考えかけて、リュクスは頭を振った。駄目だ、絶対そんなことはしない。
助産師として、妊娠してみたいし、陣痛も経験してみたい。
子供は欲しいと思っている。というか産みたい、育てたい。
別に男性が嫌いなわけじゃない。
体格のいい男性は好きだ、ひょろいアレスティアの魔法士よりも。
でも、彼らはない!!
(しっかりして私!)
眠ってないから思考がおかしい、リュクスはお腹が満たされて、眠くなりそうになってぼやけてきた頭を振った。
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