第41話.黒い悪魔
「逃げろ!」
ウィルの警告にも、人々は動かない。
困惑の表情でただ立ち尽くす人たちにウィルが厳しい顔をして足を踏みだす。その向こう、背後の崩れた壁からキリムが現れる。
先ほどよりは小型だ、キリンのような黄色に黒の斑点の皮膚。小型なのは子どもなのか雌なのか、首は一つしかないが、ゆったりと蛇のように持ちあげて、縦に瞳孔を開いて、大きく口を開ける。
足を一つ踏み出すと、その下の石畳がひび割れ崩れる。
悲鳴が沸き上がる。駆け出す人々はあちこちで転び、人間同士で押しつぶし合っている。腰を抜かして動けないものもいる。
「……そんな……上級のキリムが、こんなにいるなんて」
リュクスはカーシュに手を掴まれたまま呆然として口にした。
掴まれたままの腕が不自由で間抜けな感じだし、彼が動いてくれないかとちらりと目を向ける。
でも彼は、相変わらずの姿勢で全然動こうとしていない。
「……魔物、いるんだけど」
「知ってる」
そちらには目を向けようともしてくれない。
「三体だけだ。さほど大物じゃない」
「三体?」
「もう一体、後ろに」
彼はリュクスを見続けたまま。リュクスは腕を掴まれたまま首をめぐらすと、もう一体が向かい合うように巨体を覗かせていた。
「気にするな。こちらには来ない」
「来ないって……人々はどうするの!?」
とはいえ、ウィルとカーシュの魔力が高まっていく。カーシュはああは言っても超臨戦態勢。魔力で挑発しつつも牽制して、魔物達を圧倒して来させないようにしてる。
ただ問題は、魔物は人々をロックオンしてるということ。
そしてこっちもロックオンされてる……!
リュクスは魔物を見て、息を吐いた。
どっちの方を先に解決するかっていうと、この場を断ち切れば終わり。
「ねえ。本気で離して」
「返事がまだだ」
怒りを込めて叱りつければ、冷ややかな眼差しが返ってくる。
「それどころじゃないでしょ!」
この人は、きっとどんな現場でも冷徹な判断を下せるのかもしれない。
でもこれって何?
求婚って、こんな殺伐としたもの?
ちょっと私、かわいそう……。
「これ以上、大事なことはない。求婚の返事を」
「人の命の方が大事でしょ!」
「ならば、イエスと答えればいい」
愕然とするけど、彼の据わった目、そして抜けない手。
「誓約は始まれば、承諾を得るまで終わらない。周りは気にするな。――俺は待つ」
待ってたら魔物が襲ってくる。でも神々を巻き込んでまでの宣言。確かに途中で終わらすことはできない。
『お、おい!! アンタら、倒してくれよ』
「――邪魔するなら、魔獣の代わりにひき肉にする」
カーシュはそちらを見ないで、物騒な返事をする。人間はひいっと言って逃げた。
片膝をつくという不自然な格好のままなのに、バランスを全く崩さないで彼はじっと見ている。
ウィルが剣を片手に目を向けた魔物からリュクスを隠すように間に立つ。
「なんで、あなたが私に?」
「過去に、約束した。共に、ずっとあると」
「……」
「俺はそのために戻ってきた。そのために、いま……ここにいる」
まさか、ほんとうに。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
(……やっぱり、私の記憶がない、だけかもしれない)
可能性に思い当たるけど、だとしてもここまで強く求められるのがわからない。
「この世界は、誓約で成り立っているのよ。それは打ち消せない。あなたは本気で私を死ぬまでも、死んだ後も守らなきゃいけないのよ」
「構わない」
カーシュは言って、切実な色を宿した瞳で見上げてくる。
「……一人で、もう逝かせはしない」
「何を言ってるの?」
「応えてくれないのならば、手段をとるまで」
カーシュの言葉と共に、広場を囲むように炎が出現した。
熱風が吹き荒れて人々が悲鳴をあげる。
それは魔物を囲む檻だった。ただしその中には街の人間と自分達。
突然吹き出した炎は人為的なものだった。つまり彼の魔法だ。
人々は炎とキリムで逃げられない。
ウィルが盛大に悪態をついているが、カーシュは気にしていない。
「
カーシュが指を鳴らすと、その魔物の片面が吹き飛んだ。
魔物の肉片をあびた人間が叫ぶ。
指を鳴らし、魔法を使って見せたのはわざとだ。
「少し、外れたな。次は本当に当てる、人質に」
カーシュが目だけをちらりと向けていた。
強い。そして、容赦もない。彼はそういう人だ。
「……あなた、卑怯よ」
自分にだけ見せる執着。なぜ自分を守るというのか、改めて考えてもわからない。
「ウィル。魔獣はお前に任せる」
「――俺はお前の部下じゃねーぞ」
ウィルの返答に、彼はわずかに酷薄な笑みを浮かべる。
「
ウィルがため息をついて、リュクスたちの前だけに陣取り剣を構える。“ここだけ”を守る構えだ。
これまでの態度でウィルも街の人間を守る気は、なくしたらしい。
でも、人間なのだ。どんなことをしてきたとしても。
「――あなた達の組織は、そういうことをするのね」
「大事なのは使命を果たすこと。手段は重要じゃない」
「その代わりに、私はあなたを嫌いになるわ」
カーシュの目の色が濃くなる。瞳は揺らがず、表情も変えない。ただ感情が色に現れる。
(まさか、今ので傷ついたの?)
「結婚はしない」
彼の瞳が揺らいだ気がした。黒い湖のような瞳が、ほんの一滴の雫がおちたかのように。
でもそのさざ波はすぐに消えて。彼の冷静な声が返ってくる。
「――では、今は守護者の承諾のみ。求婚の返事は暫定保留、と」
これ、本当に求婚……?
「保留も、断る」
カーシュはわずかに黙る。その間が怖い、彼が考えこむと嫌な予感しかない。
「――現在は保留。のちの承諾と」
「ない」
「俺が決めた。そう決めたらそれしかない」
いったい、何なの?
「一人にしはしないと誓った。あの約束をたがえる気はない。俺に――償わせてくれ。手遅れにはしたくない」
カーシュは声を絞り出した。苦しみを込めたような熱のある眼差しに、リュクスの中でも困惑と罪悪感がせめぎ合う。
相手を傷つけたくない。自分がしてあげられるならしてあげたい。でも、駄目だ。
(私は、何を学んだの?)
理由もわからず、相手に頼まれるまま応じた。その結果――苦しんだ。
お願い、のユーナの声が響く。
「なあ。もう牽制も限界なんだけど」
「ウィル、お前は無能か?」
二人の会話に、過去から今に引き戻される。
ウィルは魔物と見合って、絶妙な距離をとっている。人々が避難するまで自分に意識を向けさせ、かつ魔物が襲ってこないように魔力で牽制している。
たしかにこの膠着状態は、自分が何とかしないと終わらない。
カーシュはすごく強情だし、一度決めたら死ぬまで動かないし、死んでも守ると言ってるし、もうわけがわからない。
「卑怯なのは承知だ。何度でもいう、何度も誓う。ただ……間に合わせてくれ」
その切実な声に、心が揺れる。
彼は、何かの痛みを抱えている。その痛みは、リュクスが応じない以上解決できないのだろう。
「認める、と。その一言でいい」
彼には、イエスと答えるしか救いにならないの?
握られた手は熱い。必死に何かを求めている。目を閉じて開いた後、覚悟を決める。
もう、答えるしかない。それに自分が”応えられない”とわかっていても。
「私には、家族は作れない」
「……どういう意味だ」
「説明しない。しないでいいなら、……認める。結婚の承諾以外は」
「求婚の返事は、保留だな?」
もう街の人々の安全も限界だ。リュクスは、カーシュとウィルに順番に目を向けて戻す。
「……保留する。でもね、条件がある。ウィルも聞いて」
ウィルが魔物を警戒しながら振り向き、カーシュが「言え」と声を出した。
それを合図に、リュクスは沈んだ声で、二人を見つめた。きっと何とも言えない顔をしている。
「二人とも、私のこと好きにならないでね。それが条件」
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