第39話.あなたは誰?

「ウィル!」


 ウィルが走り出す。短い短剣一本でどうするのか。

 リュクスは腕を伸ばしてそのまま固まる。昔は一瞬で編めた魔法が、今はできない。


 今の自分にできるのは、精霊たちに願う精霊魔法と神々に願うルーン魔法。どちらも直接攻撃はできない。


 キリムが長い尾を無造作に振る。それを蹴るように反動をつけて飛んだウィルは身体を回転させてよけながら、魔物の頭上をとる。


(高い……!)


 あんな簡単に飛ぶなんて人間技じゃない。おまけに普通、人は魔物に恐怖を覚える、どうしても腰が引けてしまう。


 魔法士は魔法を放つために安全圏の後方にいることが多いのに。

 そのうえ、リュクスとの魔法を使わないという約束をまだ守って、剣一本で魔物に立ちむかっている。


 頭上をとるウィルに、魔物は獲物を探すように首を巡らせる。けれどウィルの方が早い、彼は真横に下りざまに、腕をひらめかせる。


 何をしたのか、すぐにはわからなかった。ただ魔物の首が不自然に真横にずれ、いきなり体液が飛びちる。一本の首が切り落とされたと理解する、けれどまだ残る一本の首は彼の身体を食べようと迫る。


 その口が開けば一飲みされてしまう。


「ウィル!」


 手が自然に動いた、女神の光脈は使えない。


ラド! 風の守りを!』


 印を描き、ルーンの力ある言葉を放てば、ウィルを守るように突風が包み魔物の伸ばす首の軌道線上から外れる。


 ウィルは逃げなかった。むしろリュクスの生んだ風を蹴り、魔物の口へと剣を向ける。逃がそうとしたのに、彼はそのまま口の中に突っ込むつもりだ。


「ウィル、逃げてってば!」


 その時、ウィルの身体が不自然に空中で身を逸らして逃げる。


 外部の力ではなく、彼自身がそうしたようだ。その柔軟性と身体能力に驚くけど、それ以上に恐ろしいのが唐突に満ちた魔力だった。


 頭上から押しつぶすようなキリム以上の空間を威圧するような魔力、しかも冷徹さを感じさせるもの。


 何が起こっているかわからない。ただ危険なものが来たと感じてしまう。

 一瞬でまだ空中にいるウィルと自分、そして逃げまどう人々を包む強力な防御膜を編みかけ、女神の光脈がないことに気づいて指が止まる。


 前は息を吸うようにしていたことだから、女神の力がないことにまだ慣れていない。


 一度編んだ魔職を指一本で瞬時にほどく。魔力をこれ以上使うことにほんの一瞬迷った隙に、空間を支配していた謎の強大な魔力が凝集して、爆発するように今度は拡大していく。

 

 その狙いの先は、魔物一点のみ。


 キリムの動きが止まる、そして体はサーカスのバルーンように膨らみ、勢いよく弾けた。


 次に襲ってきたのは、雨のように降り注ぐ体液と肉片。


 キリムの肉片に毒性はないから体に触れても問題はないが、凄惨さにリュクスは呆然とする。

 

(いったい、何が、起こったの)

 

 魔法に関して、誰にも引けを取らない自分が状況を理解できない。


 そして、リュクスの意識を奪ったのは冷え冷えとした魔力だった。


 広場の中央、人が逃げ、魔物が弾け、瓦礫が散らばる中に佇むのは、ぴたりとした黒い戦闘服に身を包んだ男だった。


 彼は無造作に軽くあげた左手を下ろす。黒いジャケットは防弾作用があるのか膨らんでいて、いくつもの武器を収納していそうなホルダーがついている。


 バックルがついたパンツ、指先の空いている黒い手袋。


 鍛えた体格は戦闘服の上からでもよくわかる。

 リュクスは降ってくる肉片を被ったフードでよけながら、その背を凝視する。


 黒髪に記憶が揺さぶられて、息ができなくなる。


 いつもその背を追い求めていた、呼んでいた。


「パパ……」


 気がつくと何かを呟いていた。


 勢いよく光景が流れる、伸ばすと繋いでくれる大きな手。腰に抱きついても胴まで届かないほどの背の高さ、腰のポケットには固い何かが入っていて、それを不思議そうに見つめると、手が伸びて肩まで抱き上げてくれた。


 いつの間にか、腰には固いものは何も入っていなくなっていた。笑いながら、頭を撫でてくれていた手。見つめてくれる瞳、「ティア」と優しく呼ぶ声は愛情にあふれていた。


 その背中に守られていると、何があっても大丈夫だと思っていたのに。

 来てくれなかった。守ってくれなかった。どうして、来てくれなかったの?


 鼻がツンと痛くなる、なぜか瞳からこぼれた冷たいものに困惑すると、不意に頭を突き刺すような痛みが走り、叫びそうになって我にかえる。


(何、この記憶……)


 よく、わからない。覚えていない。


 そしてその映像は急速に消えた。


 黒髪の男が振り返る。その姿にも、記憶が揺さぶられる。

 どこかで、会った?


 けれど、それもすぐに消えさる。


 それは彼が進んでくると、腰を抜かしていた広場の人間が慌てて逃げ出す。


 ウィルが広場の中心に着地する姿が見えて、リュクスは肩を下ろして息ができるようになる。


(――無事だったのね)


 と、ウィルは黒髪の男に向かい、喧嘩腰で文句を言っている。知り合いのように気やすい。けれど男はウィルを完全に無視して、リュクスに向かってずんずん来る。


 完全に固まってしまう。あの強大な魔力は、もう放出されてない。


 なのに向ってくる圧がすごい。

 

 強大な魔力の持ち主は、これまでいっぱい見てるし自分が一番上なので気にもならないはず。

 けれど迷いなくこちらに来る姿に、逃げたくなる、でも足が縫い付けられたかのように逃げることができない。


 鍛えた体格のわりに獣のように足が滑る、しなやかな動き。


 ――そして、男はリュクスの前に屈みこんだ。

 短かすぎず、長すぎない髪は襟筋より上で無造作に切られている。

 視界を遮らない長さの前髪、けれどその合間からは覗くのは闇のように黒く深い眼差し。


 固まっていると彼がリュクスのフードを当たり前のように後ろに落とす。目と目が合う。


「……無事、だった……か?」


 本気で心配しながらも、感慨深そうな声。リュクスの顔直前まで伸ばされた指先が、空中で止まっている。微かに頷くと硬い皮膚をもつ指先が、リュクスの濡れた跡のある頬を撫でた。


 手のひらだけではく、指まで硬くなるほど武器を持つことに慣れている手だ。何か握る手。でもその手つきは優しくて、痛くなかった。


「なぜ、泣いていた? 痛むのか?」


(あなたは……だれ?)


 どこかで見たような気がするのに、思い出せない。

 そして最初に感じた冷徹さは感じない、リュクスを見る視線、仕草は丁寧で優しい。


 いったい、なに?

 今、何が、起きているの?


 でもその問いが声に出ない。


 彼がじっと凝視する。

 その視線に唇を開くが、やっぱり言葉が出てこなくてまた閉じた。


「喋られないのか? 怪我をしたのか?」


 彼の目に探るような気配が満ちる。リュックスが小さく首を振ると、涙をぬぐった指がひっこめられて。こんどは全ての手で、リュクスの頬をそっと包み込む。


「怪我はないな? 痛いところは?」

 

 リュクスが首を振ると、今度は怪しいことを尋ねてくる。


「……生きているんだな?」

「なに、言ってるの?」

 

 リュクスの声にようやく安堵したのか、納得していないようだけど質問が終わる。


「俺は……」


 彼はそう言って、リュクスを射るように見つめた。


「お前を、ずっと……探していた」


 整っているのに精悍な顔。黒い瞳は切れ長で、先ほどの攻撃を見ると容赦がない性格だとわかるのに、今は瞳と言葉が揺らいで不安を宿している。


 のぞき込んでくる目は、リュクスの中に懐かしさを求めているみたいだ。


 ……わからない。記憶力には自信があるのに。ただ何となく日本人の面影があると感じた。


(日本で、会った?)


 ううん、それはない。よく見れば、それは一瞬のこと。目の奥は光を受け青いし、彫りも深い。日本人にしては、鍛えすぎている。


 袖を折った腕の皮膚はいくつもの傷跡を残し、闇を抱えた瞳は辛いものを見てきた証拠で、平和な日本人とは違いすぎる。


「迎えに来るのが遅くなった。……すまなかった」


 彼は自分を誰と間違えているのだろう。


 何を後悔して、何を期待しているのかわからない。それでも向けてくる瞳はひたむきだ。


 だからこそ、この言葉を言うのは辛かった。


「――申し訳ないけど……あなた、だれ?」


 追い詰められた感さえあった瞳が、怪訝そうにすがめられ、そして一転して無表情になる。


(あれ? やっぱり地雷?)


 でも、知り合いのふりはできないし。


「覚えてない、のか?」

「……誰かと間違えてるのじゃない?」


 沈黙が落ちる。元々寡黙な人なのだと思うけど、リュクスもそれ以上言う事はない。

 ちらりと、もしかしたら、と思うこともあったけど。


(まさかね)


 それを、あの方にされる理由がない。よほどのことじゃない限り。


「どこからどこまで覚えていない?」

「全部、あなたのことは全く知らない」


 彼が黙考する。問いつめもしないで、真顔の無表情で考えられると、何かこうビビる。


「――あのさ。勝手に世界作んないでほしいんだよね」


 座り込む二人の横で、戻ってきたウィルが尊大に腰に手を当てて、見下ろし不満そうに後ろ指で魔物の欠片を示す。


「人の獲物、横取りしないでくんない?」

「――敵は現れた瞬間に、いや、気配と同時に潰せと教えたはずだ。ウィル・ダーリング」


 唐突に男は声音を冷ややかに変えた。いきなりの命令口調だけど、顔はウィルの方を見向きもしない。


「俺はもうアンタの部下じゃないんだけど」


 ウィルが言い放つと、彼はハエを追い払うようにウィルを煩げに見て立ち上がる。ウィルと同じ背丈なのに、威圧感がある眼差しのせいか、彼よりも高く見える。


(ちがう、姿勢がいいんだ)


 伸びた背は、何か武道をやっていた感じだ。

 まるでヤクザの親分の背後に控える影の存在だ、静かで威圧のある研ぎ澄まされたやいば


「しかもあの派手さ」

「キリムは表面を焼くだけでは死なない、内面まで一瞬に消し炭にする。もしくは瞬間で肉片にする、じゃないと再生する。それがセオリーだ」

「住民の目の前で、あれだけの魔力を凝縮させて、爆発させるのが最良かよ」


 黒髪の彼は、非難するウィルに冷ややかに返答する。


「済ませた案件の処理法を議論するのは無駄だ」


 ウィルが舌打ちをして、嫌そうに睨む。


「じゃあ有益なことってなんだよ。よほどの大事な用だろうな」


 ウィルは言ってから、顎をあげて皮肉気に見つめ返す。


「アンタほどの人がくるなんてな。どういう意図だよ――カーシュ・コーエン」

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