第37話.ルーンの詩


 あちこちで倒れ込んでいる人の中で、一人だけ僅かに身動きしているものを見つけて駆け寄る。


 飛び回る大きな影が人々の頭上を飛んでいる。あちこちの家が赤い炎と煙を上げている。


 鋭い声を上げて、降下してきた人面鳥のくちばしが向ってくる。


 すれすれでかわしながら、シルフィ風の精に呼び掛けるが、反応はなかった。


 精霊たちは争いが嫌いだ。魔物との戦いには、精霊ではなく攻撃魔法が必要。


(でも――魔法は使えない)


 焦燥を覚えながら、ほかの手を考えようとしたところで、真横に人面鳥が急降下してきた。


“シルフィ!”


 大きく口を開ける人面鳥に、身体が動かない。凍りついてしまうと、襟を掴まれて勢いよく後ろに庇われる。



 同時に目の前の人面鳥がスパッと首を切り裂かれて落ちた。


「だから、離れるなって言ってんのに」


 ウィルが幾分腰を落として、リュクスの前で構えている。逆手に持った短剣に不敵な笑みを浮かべた口角。


 切り口から魔物特有の硫黄のような臭気が立ち込めた。その匂いが魔物を呼び寄せ、新たな人面鳥の影が空の向こうから表した。


「手間が省けるな」


 むしろ、うれし気な口調に驚いて見上げると、彼の目は鋭く敵を見すえている。落ち着いているし、集中力がすごい。


 彼がわからなくなる。陽気なのは知っていた。でも、戦いにおいて見せる陽気さは真剣さのカモフラージュで、切り口からみると容赦はない。


(この人、戦いのプロなんだ……)


 魔法なしでこんな戦闘ができるなんて、どういう人なのだろう? 


 どういう組織にいるの?


「俺から離れるなよ?」


 不意に再度念を押すように振り向いて、じっと見てくる。固まったままのリュクスを見て、苦笑から安心させるように明るい笑顔を見せる。


「安心しろって。すぐに片づけるから」

「――私は、火を消すから」


 ウィルの気配に飲まれていたことに気がついて、自分のすべきことを思い出す。

 彼は固まっていたリュクスの様子に気づいていたのだろうけど、軽く笑った後にすぐにそれを引っ込める。


「俺の視界内に」


 ムッとしたけれど、彼の闘いの妨げになりたくない。


 周囲を見渡せば、噴水の陰には何人もの人が水を求めてかけよっていた。物陰に隠れて、頭を抱えている人。ウィルの戦いに呆然と見入っている人、様々だ。


(ウィルには、魔法はダメって言ったけど……)


 噴水からは水が出ていない。槽の中には煤混じりの水が浅く溜まっているだけ。


 ランプや暖炉の火が燃え広がったのか、それとも魔物を倒そうとして、火をつけたのかはわからない。


 目の前で燃えている店は、ドア横の看板に牛の絵が描いてある、たぶん食堂だろう。


 ――こんな炎。

 リュクスは沸き上がる感情を、ぐっとこらえる。


 昔ならば、一瞬で消せた。


 でも今その魔法は使えない。代わりの方法はいくつかある、その中で有効であるものを選ぶだけ。


 一度心を静める。乱れた心では、精霊たちは寄ってこない。


 肩の力を抜いて、目を閉じる。胸に手を当て、この喧噪に満ちた空間から自分を切り離す。


 ――喉を鳴らす。声ではない、口蓋の奥から、さらにもっと深い身体の奥から音を出す。空間に鳴り響く、囁くのは精霊たちのうた


――ᛃ'ᛟᚱᛞᛟᚾᚾᛖ ᛈᚨᚱ ᚷᚱᚨᚾ ᛞᚢᛖᚢᛉ ”精霊たちよ、神々たちよ”


――ᚠᚨᛁᚱᛖ ᛚᛖ ᚢᚨᚾ ”風をよびたまえ”

 

 それは低く高く、長く細く、喧噪の隙間にするりと響き渡る。


――ᚠᚨᛁᚱᛖ ᛚ'ᛖᚨᚢ ”水を起こしたまえ”


 水の匂いがする。

 

――ᚠᚨᛁᚱᛖ ᛚ'ᛟᚱᚨᚷᛖ  ”嵐を起こしたまえ”


 風が回りだす。


 精霊たちが光となりそらへあがり、リュクスのうたを神々に届ける。


――ᛖᛏ ᛖᛏᛖᛁᚾᛞᚱᛖ ᛚᛖ ᚠᛖᚢ ”この炎を消し去りたまえ”


 これは精霊たちへの“お願い”ではない。

 この地に住まう神々へルーンで捧げるうた


 リュクスがうたう姿を住民が見てるのを感じる。でもこの空間にいるリュクスにはすべてが遠い。


 わかってる、彼らはこの詩を魔法と思うだろう。

 これはエルフやルーン使いのルーン魔法で、魔法士にとっては亜流。魔法士にとっては、全く違うものだけど、魔法を使えない一般人に違いはわからない。


 この地で魔法士と疑われることは危険だったけれど、仕方がない。


 遠くから雷鳴が響く。人々が不安げに空を見上げるころには、急速に空が黒い雲で覆われて、やがて豪雨に包まれる。


 火が瞬く間に消えていく。


 リュクスは、外套をひきよせて豪雨から身を守る。


 ――ルーン魔法は、神々への詩なので少しでも音や抑揚や響きを外すと効力が得られない。

 ディアノブルの塔では、魔法に値しないと見下されていたが、とても難しい。

 

 けれど、女神の力は必要としないし、それなりの効力を持つ。


 街人たちが、チラチラとこちらを見ている気配に嫌な感じはしたけれど、ここでそそくさと逃げるわけにもいかないので、平然とマント姿で佇む。


 リュクスと住民と魔物の死体全てに、痛いほどの雨が降り注ぐ。


 空を覆う人面鳥はいない、ウィルが倒したのだ。


 これまでは火を消して、魔物から逃げるのに精いっぱいだった街の人間たちが、いつのまにかウィルとリュクスを取り囲んでいた。


 ウィルが警戒してリュクスを庇うように前に立つ。その背の広さと高さ、構えの安定にかばわれていることに、ふと安心感を覚えていることに気が付く。


 彼がその手に構えているのは短剣だ。

 それに目をやる。


 アレスティア製の魔法剣じゃない。たぶん魔法で強化をされてるのだろうけど、一見はその辺にある道具屋に売っているような脆い剣のようにしか見えない。

 言葉も紋様も何も刻まれていない、でもあれだけの魔物を倒して刃こぼれをしていない。

 魔物の肉を骨ごと両断できる切れ味、見事に輝く刀身は赤みを帯び綺麗だ、何かの付加作用があるのだろうか。

 彼が自分の世界から持ってきたのなら、とてつもなく高度な技術で錬成されている。


 普通の剣じゃないのはわかるけど、あんなに短い刀身で大きな魔物を一刀で切り裂く彼の腕も並じゃない。跳躍で魔物の頭上を取り、切断する膂力、意外に早い魔物の攻撃を避ける敏捷性、魔法士にはない。


(いったい何者なの?)


 背を凝視するけれど、ウィルが答えるわけがない。


 人々の視線を感じる。

 ここまでの強さを見せられて、通りすがりという言い訳が通用するわけがないけれど、彼はまだ魔法を見せていない。


 剣客か、魔物退治を生業にしているトレスの騎士崩れと名乗らせれば、見逃してもらえるだろうか。


 ただ、どう彼に伝えよう。


 周囲の怪訝そうな雰囲気。

 魔物を倒し雨を呼び消火してくれた者達への感謝はない。むしろ敵愾心のようなものが高まっている。


 住民の異様な気配に、ウィルは警戒を解かずにリュクスに背中を向けたまま囁く。


「俺から離れるなよ」

「――ううん。ウィルのほうこそ、私から離れて?」

「は?」


 仕方がない、ここは会話で場を乗り切る。

 ちらり、とこちらを見下ろす視線に首をふる。彼の橙色の髪は濡れて赤みをまし、雫がいくつも垂れている。


『お前ら、魔法士か!?』

『よくも、化け物を呼んでくれたな!!』


 罵声があちこちから飛んでくる。ウィルが「なーるほどね」と皮肉気に呟いた。


 火が消えて、雨が止むと人々の罵声と非難がさらにひどくなる。魔物がいなくなり、恐れを追いやり人々は二人をやり玉にあげようと包囲してくる。


(ウィルを逃がすのが、遅れてしまった)


 当たり前か。どう考えても連れ合いにしか見えない。


 魔法を見せると畏怖されると予想していたけれど、家や街を壊され、魔物に襲われた怒りを全部向けてくる。


 火事や後片付けに追われている間に去ろうと思っていたのに。


 このあとの展開を甘く見過ぎていた。


「これが、魔法を使うな、っていうワケね」

「半分はね。半分は違うけど」


 ウィルは、アレスティア語を解さない。けれど雰囲気で理解しているだろう。


『家を返せっ』

『家族を、よくもっ』


(ここまでターゲットにされてしまうと、忘れさせるのは無理)


 まだ自分たちの印象が浅ければ忘れさせることができるけど。

 一度記憶に強く残ってしまえばもう駄目。


 中には刃物を持っている人間もいた。だんだん輪が縮まってくる。殺気だった人々は、言い訳を聞こうとしない。

 魔物を倒されて、もう怖いものはないのだ。

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