第32話.気遣いの彼

 ウィルがリュクスを椅子に座らせる。無造作で気にしていなさそうだけど、顔は逸らしたままだった。

 からかう時は軽薄そうで茶化すけど、していいこと、嫌がること、その線を見極めている、そう感じた。

 すごく場を読んでる。


 彼はリュクスのはだけているシャツをかき寄せると、椅子にかけてあったひざ掛けを投げてきて、すぐに裏口に引き返す。


「あ……っ」


 リュクスは服のことを思い出して立ち上がるが、すでに戻ってきたウィルと鉢合わせして足を止める。


「ほら服」

「……っ、普通、触る!?」


 重ねたシャツの上にはブラジャーにショーツ。

 押し付けられたものを受け取りながら恨めし気に見上げれば、ウィルは妙に冷めた目だった。


「服は服だろ。服に興奮はしねーし」

「……そうだけど」


 そういう人もいるのに。


 黙り込むと彼はそれを机の上に置いて、リュクスが着たままのシャツのボタンをかけ始める。


「ちょ……」

「十代の女の子に手は出さないけど。お互いのために、な」


 お互いのため。


 それはリュクスのためだけじゃなくて、彼のため……という意味も?


 少し首をかしげていると、彼は気づいたようで「そーいうことは聞かないの!」と、少し雰囲気をくだけたものにして、ひざ掛けで頭をごしごしこすってくる。


 ちょっと、ひざ掛けは水分吸収しないんだけど。顔つきが少しだけ和らいでいる。


「手当するから座れよ。……悪かった、当たった」


 その顔は気まずそうだ。何を言われたのかがわからなくて、顔を見つめ返すと、ハーっとため息が返ってきた。


「目を離した俺が悪い。なのに、腹を立てた。アンタに当たることじゃなかった」

「……」

「早急に対処しなきゃいけねーから、襲ってきた奴のあてはあるか教えろよ。それからあのジャスって奴のことも」


「最初のは、あてはない。……たぶん、魔力に引かれてやってきた低級の魔物」

「……」

「魔物は魔力を糧にするから魔法士は狙われやすいの。だから私が特別じゃないわ。防御膜は小屋にかけてるけど、泉にはかけてなかった。アレスティアが落ちて魔物が増えてるんだと思う。……ジャスは、昔の知り合い」


 迷ったけれど、続けた。ジャスはウィルの存在に気づいていた。知らせておかないと、今後彼は困ることになるかもしれない。


「ジャスは、アレスティアの第四王子。ジャディス殿下よ」


 微かに目を見開いたウィルを遮るように、口を開いた。


「着替えたい。……下着もつけたい」

「……そうだ、な」


 ウィルは反応が遅れたようだった。考え込んでいたけど、不意に人の悪い笑みを浮かべる。


「シャツ、そのまま貸してやっててもいいけど」

「遠慮する」


 上半身裸のままで、両手を腰に当てて顎をあげて偉そうにするから、わざと冷ややかに答える。こういうのに照れると、調子に乗るから憮然として返事をした。


 けれど親切なのは確か。シャツは自分に貸したままだし、彼自身は冷たい泉に入って濡れたままで、すごく寒いだろう。


(……というか、すごく鍛えた体だ)


 服を着ていても思ったけれど、筋肉がしっかりついて身体が硬い。

 胸も腹壁も、板みたいだ。ボディビルダーのような盛り上がった筋肉ではない、アメリカ映画の戦闘員の俳優みたい。しかもあちこちに白い傷跡がある。


 ちらっと眺めたリュクスに、にやにやしている気配があるから、目を逸らしてそれ以上は見ない。


 リュクスは自分のカバンを持って部屋の奥に行って櫃を開ける。住んでいたのは子供の時だからリュクスの服はない。

 ウィルのシャツを脱いで手早くブラジャーのホックをはめたところで、思いついてカバンから替えのショーツを取り出す。


(夜勤明けでよかった!)


 次の夜勤に行く前に、さすがに替えたくて持ち歩いていた予備の下着セット。忙しすぎて替えることができなかったけど、今ここで役に立っている。

 新しいものに着替えて、下着姿のまま、腰まであるストレートの白金の髪を梳かす。


(全身を写す、姿見が欲しい……)


 今の自分はどんな風になっているのだろう。そう思いながら、改めて考える。


 ――奥にいるのは、三十代の鍛えた組織の戦闘員。

 しかもそのボスは自分の父親。


 ヤクザ? もしくは、軍隊?


 アレスティアの魔法士だったときから、ぼんやりと親のことを想像するときもあったけど、まさか別の世界の組織の親玉だったなんて。


 しかもウィルは魔法を知っている、というか使える。彼の世界から自分が来たならば、そちらでも当たり前にあったものと考えてもいいのかも。


 となると、東京よりも彼の世界の方がこの世界に似ている? 文明はどのくらいなのか聞いていないけれど、聞きたくない。深入りはしたくない。……興味があると思われたくもない。


(駄目だ。夜勤明けはまともな思考にならない)


 引き出しから、ニルヴァーナの木綿の寝巻を探す。彼女の私物は漁ったことがないけど仕方がない。

 一枚の長いリネンのワンピースがよさそうだった。

 大きくあいた丸い襟ぐり、囲む緑の枝の刺繍。枝は女神の象徴のデザインで魔女はよく身に着ける。


 Aラインのそれを頭からすっぽりかぶると、裾がゆらゆら翻る。

 寝間着を着る時は、ブラジャーは脱ぎたい。でも、ウィルがいるからな……。


 着る時に首に痛みが走ったから押さえたら、するどい痛み。たぶん新しい傷ができたのだろう。

 

 見下ろすと足首と手首にも擦過傷ができていた。泉で魔物に巻き付かれたところだ。微かな痛みがあるけれど、歩くのに支障はない。


 あれは、低級の魔物。昔から、ああいうのに襲われるのには慣れていた。昔は誰かがいつも庇っていてくれた気がする。その背の後ろにいれば大丈夫、と信じきっていた。


(やめよう……)


 頭をふって、居間にもどるとウィルは暖炉の前で暖をとっていた。


「ごめんなさい。あなたの着替えはない」

「いーよ、乾かすから」


 彼はちらりとリュクスをみて、一瞬眉をしかめたけど自分のシャツを暖炉に翳して乾かす。


 ついでに戸口に置いた袋入りの彼の唯一の持ち物のジャケットを取ってくると、それを暖炉の火に放り投げた。


「何してんの!?」

「血まみれだし。返してもらったのは違う世界に物を残さないため。必要なのは通信機だけ」

「……そうなの」


 徹底している。やっぱり潜伏に慣れているのかもしれない。


「……それより、先に手当するからその辺に並んでる薬草のこと教えて。それから情報交換」

「民間療法は信じてないんでしょ」

「ないよりはマシだし。一応、傷口から感染したら困るだろ」


 リュクスは黙り込んだあと、指を鳴らした。

 サラマンダーが出てきてくるりと一回転をすると彼の履いたままのパンツと、暖炉の前のシャツを乾かす。

 そのまま子どものサラマンダーはウィルが気に入ったようで肩に載って遊んでいる。


「あ、サンキュー」


 「こういうちっちゃい魔法って苦手なんだよな」とウィルは呟いてリュクスに近づくと、彼のシャツを被せてくる。


「なに!?」

「……透けてる、しかも黒」


 一瞬遅れたあと意味が浸透して、顔が赤くなる。寝巻だからいいかなって油断してたけど。

 はっきり指摘しなくても……しかも色も。


「黒って、言わなくてもいいし。しかもさっき見たでしょ!」 


 モノを、持ってくる時に。


「そ。物体だけ見るのと、着ているのとでは男にとってはダンチなの」


 こういうことは、ちゃんとしなさい、ってボタンをはめなおす。チャラそうなのに、世話好き? というのとも、ちょっと違うような。


 世話を焼かれるのに慣れていないし落ち着かない。裸の足の指先を重ねてもぞもぞしていると、最後のボタンをはめなおして、彼は満足そうな顔で笑った。


「なんつーか、妹とも違うけど。危なっかしいのは、そのままにしときたくないって言うか。他の男に見られるのも許せないし。ほっとけないんだよな」


 ……それより、そっちが上半身裸なのが気になるんだけど。


「あ、こっちは気にすんなよ。意識してもしなくても、どっちでも。まあけっこう鍛えてるつもりだけどさ」

「……気になるから、そのひざ掛け被ってて」

「ひざ掛けって、そういう使い方?」


 そう言いながらも大人しく肩に羽織るから、もしかして寒いんじゃないかと気になってくる。


 でも、そのことには触れないで、部屋の片隅にある木造りの階段を降りていくと、ウィルがついてくる気配がした。


「そういやさ。俺らは魔力を持ち、人間を襲うものを魔獣っていうんだけど。こっちでは魔物っていうのが通称?」

「……魔力を帯び悪意のあるもの全般を言うの。さっきみたいに形を持たない霧みたいなものも」

「なるほど……色々ちょっと違うな」


 階下は、作業部屋だった。ランプを机に置いて光源を安定させるとウィルの口笛が聞こえた。


 壁にかけたハーブの束はカーテンさながら。

 棚にならぶたくさんの瓶は、薬草や木の実を瓶につめてアルコールにつけたもの。火が反射して、シャンデリアのようにキラキラ輝いている。


 乾燥させた薬草の粉が入っている引き出しが、壁一面に並ぶ光景は中国の薬局みたいで、映画の舞台の背景になりそう。


「これ全部アンタが作ったの?」

「……昔ね。家も、作業場もここに住んでいた魔女に譲られたの」


 リュクスは机の上のトレイに揃えて切ってある布を取り出して、小瓶を手にして、階段に向かう。


「そういえば、なんで助産師、って言うのか、そういうのやってたのさ?」


 リュクスの後をついてきたウィルが尋ねる。


「あちらの世界……中世のヨーロッパでも、産婆は魔女と同一視されていたの。血の穢れを扱うからかしら。この世界でもほぼ魔力を持たない地に根付いた魔女は、お産を扱っていたのよ。占いとか薬草の調合とか。私はニルヴァーナのもとで、そういうことや少しお産を手伝っていたから」


 産婆はどこの世界でも必要な存在。尊敬もされていたけど、堕胎も扱っていたから魔女と呼ばれるようになったのかもしれない。

 そんな歴史はあちらのどこの国にもあって、それはこの世界と同じだった。


 医者が少ないこの世界では、今でも魔女がお産を取り上げている。ここの魔女ニルヴァーナもそうだった。


 魔法の使えない世界に行き、手に職をと考えた時に医療者になることに抵抗はなかった。


「そういや、あっちで世話になった奴もいるだろ。連絡取れなくていいの?」


 先に階段を昇りきると、まだ数段下のウィルをリュクスは見下ろした。


「それ、誘拐した人が言う? それに情報交換は応じたわけじゃない」


 冷たく言い放つと、彼はまたにやりと笑う。どうやらリュクスがツンツンするたびに楽しがる傾向があるらしい。日本だとひるむ男性がほとんどなのに。


「そーいえば。手当てが先、だったよな」

「だから情報交換は応じていないし、手当ても自分でできる」


 彼に背を向けて椅子の上に腰をかけて、小さな足先を引き寄せる。布に瓶から出したオイルを垂らしたものを足首にあて、上から包帯を巻く。


「それは何?」

「ヤローの浸剤。オイルにつけて浸出液にしたもの。止血や抗炎症作用があるの」


 ヤローはピンクや白のたくさんの小さな花をつける。


「ほんとに民間療法……」


 リュクスは口をとがらせて彼を見上げた。


「どの薬だって、最初は自然界からの植物や鉱物の効能を調べて、同じ構造になるように作ったのよ。一番有名な抗生剤のペニシリンだってもとはカビだもの」

「はいはい」


 ウィルが立ち上がって、身を乗り出し座ったままのリュクスの首の方に手を伸ばす。


「そこも赤く……」

「触らないで!」


 思わず彼の手を払いのける。

 後ろに椅子ごと倒れそうになり、ウィルは叩かれた手を伸ばして素早く助ける。身を彼の方に預けたリュクスは、すぐに彼の胸を押しのけた。


「……傷があるの」

「あ……ごめん」


 彼から距離をとって立ち上がる。突然の強い拒絶に彼も戸惑い、リュクス自身はまだ気が立っている。


 顔を背けたリュクスは一度深呼吸をして気を落ち着けて、部屋から自分のカバンを持ってきてポーチを取り出す。


「そのカバン。すっごい重いけど何が入ってるの?」

「院生なの。文献にタブレットにPC。来週は発表会もあったのよ、すっごく迷惑」

「……そうか」


 事情は分かった、と言いつつも悪びれていない。彼らにとってはさほど重要じゃないのはわかる。


 けれど、リュクスが今いるのは、大学教授や准教授が「人生で最もつらかった」と評する修士課程。


 毎回課題が山済みで、本当に修了できるのかわからず常に追い詰められている。この遅れをどうしたらいいのか。


 ――たぶん日本に帰してもらうのは無理だろう。すこしは気まずくなればいい、と思ってわざと彼の顔を見ないで錠剤を一つ手にする。


 そして立ったままリュクスの行動を目で追っていたウィルの前で顔を見上げた。


「はい。民間療法じゃない、治験を終えて商品化している薬」

「何?」

「ロキソニン。抗炎症剤で痛み止め」


 頭も打ったし、さっき腰も撫でていたから落ちた時に痛めたのかもしれない。日本では一番メジャーな薬を載せたリュクスの手を見て、それから微かに笑った後、彼はその手をそっと押し戻す。


「サンキュ。でも薬飲むと肝心な時に頭も体も鈍くなるから」

「なにそれ」

「……誰かさんの教え。っていうか……」


 彼は懐かしそうな顔をする。

 その顔を見て、また思う。彼はリュクスを通して遠い誰かを思っているのだと。


 でもすぐにそんな表情を消し、彼はリュクスの両腰に手を回して、抱き上げる。


「ちょっと、何!?」


 そのまま椅子に座らせて、椅子の背に両手を置いて挟み込むと、リュクスの逃げ場を失くす。


「んじゃ、身の上話はなし。今の状況確認のための情報のすり合わせだけってことで」

「……」

「じゃないと、ここから動かさないけど?」

「それって脅迫よ」

「ささやかなもんだろ」


 ぐいって見下ろす顔はすっごく強引、目の力も強い。


「わかった。でも、覆いかぶさらないで……苦手なの」


 リュクスが顔を背けて言うと、彼はすばやく手を離し「ごめん」と言った。

 震える手を隠すように背にまわしたけれど、確かに彼はそれを見ていた気がする。

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