第30話.水浴の最中に

 小屋の裏口から出ると、土と水の匂いが鼻孔を満たす。

 東京にはない、草木の息吹、清涼な空気。それを身体に沁み渡らせて、一歩進む。


 ここの泉は飲み水にもできる安全で貴重な水源だ。


 リュクスはランプを水辺に置いて地面に手を突く。そういえば、東京にいた時と同じタイトスカートだ。これでは動きにくいし、すぐに汚れてしまう。


 どこかで着替えを調達しないと、と思いながら、なるべく服を汚さないようにしゃがんで、触れた手から地面の中へと意識を巡らせていく。


 目を閉じて、心の中で感じる。地下には広大な女神の光脈が根のように張り巡らされている。それは、実際に女神の大樹の根の部分。


(まだ……生きている)


 女神が去って、世界中に伸ばされていた光脈は、枯枝かれえだのようになってしまった。それは微かな魔力が残るだけの残骸。


 けれど地中の根には女神の魔力が残されている。


 植物と同じように地上部分が枯れても、根が生きていればまた再生できる可能性がある。そこにリュクスは自分の魔力を注ぎ込む。


 地脈は、生きているかのように拍動して、リュクスの魔力を喜んで吸収していく。

 

 ずっと……絶やさずにきた。あちら日本から送るのは光脈を感じなくてもどかしかったけれど、今は直に感じる。


 リュクスたち魔法士は、光脈と自分の魔力で魔職という構図を編んで魔法を発現させる。けれど女神の光脈は、もう編めるほどの量はない。


 魔力があるものは自分のものである程度の魔法は使える。リュクスも明かりをつける程度のことはできる。でも今はもう魔力も枯渇状態。


 あとは、精霊たちに頼んでわずかな現象をおこさせる精霊魔法のみ。


 それでも、――アレスティアを、浮上させる。残り僅かな魔力で。それだけがリュクスの最期の仕事だ。

 

 力を注いだあと、リュクスはタイトスカートを地面につけて、座り込んだ。


(……ちょっと、休憩)


 夜勤明けで寝ていない。もう本当に限界だ。


(服……どこかで調達しないとなあ)


 小屋に着られそうなのはあっただろうか。あとで探してみようと思いながら、ふうっと息を吐いて立ち上がる。


 そして、シャツのボタンを外して、スカートを脱いで、ブラジャーのホックを外す。一枚ずつ丁寧に折り畳んで積み重ね草むらに置いた。横にあるのは、小屋にあったタオル代わりのリネンだ。


 夜勤で汗をかいて、お産を取りあげて血がついて身体はもう限界だった。


 裸になって、ネックレスだけをつけたまま足先を泉にそっと浸す。


「……冷たいっ……」


 昔は水浴で平気だったけど、東京でお風呂に慣れた身としては辛い。蛇口をひねればお湯が出てくるのは贅沢だったと改めて自覚する。


 この世界でもお風呂はあるが、それは金持ちの家だけ。墜落したアレスティアはかなりの文明が進んでいて、魔法石を熱源とした電気もあったけど、ここはトレスの国だ。


 トレスも貧しくはないけど、田舎でしかも森の中の一人暮らし。お風呂はない。


 少しずつ水の冷たさに体が慣れていき、リュクスはゆっくりと泉の中央へと歩いていく。


 水底は柔らかい苔だった。小さな指が絨毯を踏んでいるようだ。

 昔は首までつかる高さだったのに、今の水面は腰までの深さ。これより先に行くと足がつかなくなるので、岸辺から離れないように気を付ける。


 空を見上げると満月が天頂にある。星も降ってくるようだ。


(なんで……いま、さら)


 あれほど戻ろうとしたのに……いまに、なって。

 今になって、お迎えがくる、なんて。


 ぼうっとしかけて、リュクスは息をついた。夜勤明けは、ぼーっとする。いつまでもぼーっとしてられる。


 もう少し体を鎮めて、頭を傾けて腰までの長い髪を濡らしたあと、岸の桶を引き寄せる。お湯に乾燥したサイカチの莢や種を入れておいたものだが、ふやけて泡立っている。それを十分にかき混ぜすくって少しずつ髪に浸らせ丁寧に洗う。

 サポニンという成分が入っている天然の石鹸だ。


 最後は小屋にあったワインビネガーでリンスをする。澱が気になるので、ガーゼで漉したもので、匂い消しにローズマリーをつけておいた。

 これをするとアルカリ性になって、髪がさらさらになるのだ。日本でもたまにしていた、下手な市販のリンスよりよほどいい。


 額の上で左右にわけて、両耳にかけて背中に流す。


 東京にいた時よりも長いのは、この世界ではずっと伸ばしていたからだろう。本来の姿に戻ったら髪の長さまで戻るなんて、なんだか変な感じだ。


 ウンディーネ水の精に水を汚してしまったことを詫びて、同時に浄化をお願いして、空を見上げる。


(これから、どうしよう)


 まずは、路銀だ。小屋の中に多少は貯めてあるけれど、どこかで働いて得なきゃ生活が心もとない。そしてアレスティアを浮上させる方法を考えなきゃいけない。


(それよりも、情報収集かな)


 アレスティア墜落からどれくらいたっているのか。そして今どういう状況か。アレスティアを攻めたフェッダはどうしているのか。アレスティアの魔法士は……どうしているのだろう。


 ディアノブルの塔は研究機関だ。王宮の浮上や守護など様々な役割を担っていて、そのリーダーがリュクスだった。

 世界の魔法士の長というよりも、魔法の最高機関であるディアノブルの塔のしもべだった。塔のお世話係、と言ったところ。


 だから、塔以外の魔法士達はリュクスの配下ではないし、心配しても仕方がない。魔法士達は個人主義で、彼らが忠義を貫くのは自分の魔法を捧げる大いなる存在に対して。


 でも、魔法士達がどうしているのかは気になる。女神の光脈を使えなくなったので、魔法士としてはやっていけていないだろう。


「……くしゅん」


 小さなくしゃみをしてリュクスは身体を震わせた。


(もどろう……)


 冷えきった体を震わせて、岸に戻ろうと泉の中央に背を向けたとき、見られている感じに足をすくませた。


「だれっ!」


 慌てて振り向くと黒い水面が泡をたてて、リュクスの顔に対して水しぶきをあげた。思わず手で顔を庇い目をつぶると、瞬間、何かが右足を掴んだ。叫ぶ間もなかった。


 水中に勢いよく引きずりこまれる。自分のあげた手が水面を掴もうとして沈む。


 目をあけて見上げた水面は、満月の光は届かず真っ暗だった。開けていた口から水を大量に飲み込み、ごぼりと息をはいて死にそうに苦しい。


“――ウンディーネ水の精、水流を起こして!!”


 ウンディーネが周りで踊って水の中で竜巻が起きるけれど、のしかかる禍々しい気配が消えない。

 黒い霧が形を作り足だけじゃない、首にも何かが巻きつく、まるで枯れ枝のような硬くて細いものがリュクスの首を絞めてくる。


 ばたつかせ暴れると余計に息が漏れていく。代わりに入ってくるのが汚水のようなもの。


 水が腐っているように感じる。汚泥がまとわりつくよう。


 ウンディーネ水の精シルフィ風の精も闘いは嫌うし、魔物の気配が苦手。


 彼らに逃げられて、リュクスは水の中でもがく。このままじゃ溺れ死んでしまう。息ができない、水底に引きずり込まれる。


 不意に、リュクスのネックレスが淡い光を放つ。その光に触れた枯れ枝が、驚いたように引っ込む。

 同時に巻き付いていた者たちが、崩れていく。


 けれどまだ諦めていないとでもいうように、霧はリュクスを取り囲み、また固い枝葉を伸ばす。同じことの繰り返しだ。不自由な水の中で囚われて、少しずつ頭の中が暗くなっていく。


 その中で、橙色の物が揺らいだ。


(ウィル……?)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る