第25話.お迎えです

 救急車のサイレンが響いて、灰色のユニフォームを着た救急隊員の男性たちが走ってくる。


「十一時五十三分に産まれました。男の子です、出血は多くないです」

「……あなたは?」

「通りすがりの助産師の神宮光です。赤ちゃんを取り上げました」


 驚いている救急隊員と話していると、隊員がへそを切るかどうか指令室に指示を仰いでいる。


 『胎盤は』という問いかけが聞こえてきて「まだ出ていません」と伝える。

 

 子宮を逆さにした壺と考えると、その子宮の壁に張り付いていている鍋の蓋のような丸い平べったいものが胎盤、その鍋の蓋のつまみにある個所に臍のがついている。


 分娩が終わると子宮はどんどん小さくなる。それによって胎盤は剥がれる。はがれると同時に、子宮と胎盤を繋げていたその箇所の血管も収縮し止血される。


 長くでている臍の緒を、赤ちゃんのお臍の近く三センチの当たりでクリップを止めて切ると、赤ちゃんはお母さんとこの世界で永遠に離れることになる。

 そして母親の下肢からは臍の緒だけが出ている状態になる。


 そして助産師は、臍の緒をゆっくり引いて胎盤を出す。


 通常は三十分以内に出てくると言われているが、胎盤が出ないと子宮がなかなか小さくならず、止血が遅れるので、早めに出したほうがいい。


 ただ今回のように病院外で産まれてしまうと、分娩代を病院が請求できない。

 そうすると予約していた病院は受け入れを断ってくることがある。

 

 けれど赤ちゃんが産まれていても、胎盤がまだ出ていなければ、病院は胎盤娩出を”分娩代”として請求できる。だからできるだけ出さないでおいた方がいい。今回は、それにこだわらずかかりつけの病院が受け入れてくれることが決まったようだ。


「搬送できないので、臍の緒を切ります」

「切りましょうか?」

「大丈夫です」


 こっちは毎日やっているプロだけどなーと思いながら、救急隊員がぎこちなく臍の緒を切るのを見届ける。


 実は、臍の緒を切る時は、すごく気を使う。赤ちゃんの手はおかまいなしに暴れてくる。万が一にもハサミで切らないように、すごく気をつかう。

 小さな小さな指は、臍の緒を切る時に簡単に挟まってしまいそうだから。


 医療行為だからと医師の指示を仰いで行っている彼らが、それをするには理由がある。


 救急隊の規則で赤ちゃんと母親を一緒には運べないらしい。

 医療者側は母親のお腹の上に載せたままの方が赤ちゃんの体温が下がらないからいいのに、と思うけど安全性の問題がある。


 救急車は指令室に搬送用の保育器を搭載した別の救急車の要請をしている。なので赤ちゃんと母親と別に運ぶらしい。 


 さらに付き添いの子どもをどうするか、ということを話し合っている横で、リュクスは母親に話しかける。


「お疲れさまでした。お元気でよかったです」

「本当に、ありがとうございます」

「少し、せっかちさんでしたね」


 茶化して言うと、彼女の顔に少し笑いが浮かんでほっとした。


「たぶんあちらの病院の先生が出生証明証を書いてくれると思いますが、救急隊の人に連絡先を伝えておくので、何かあったら連絡をください」


 出生証明証に記載ができるのは、立ち会った医師か助産師、もしくは近親者。病院外で産んだ場合、分娩に関わっていない医師は証明証を書くのを嫌がることもあるが、あの病院ならば大丈夫だろう。


「それから、傘で隠したし、映像も誰も取っていないと思うので安心してください。もし今回のことで思い出して、辛くなるようなことがあったらいつでも連絡ください」


 そう言いながら、少し迷って彼女の目をのぞき込む。


「本当に誰も見ていないし、”記憶することではありませんから”」

「……はい」


 ちらり、と橙色の髪の彼がリュクスに目を向けている気配があったけれど、それは無視した。


 この時のことで辛くなることがあれば、いつでも話して、と連絡先を渡しておく。

 

 ようやく担架に載せて運ぼうとしている彼らを見送っていると、血だらけのジャケットが床に残されているのが目に入る。救急隊員も気づいたようで、どうしますか?と渡される。


 正直、血液のついたものは医療者にとっては不潔、という扱いになる。汚染物になるので触りたくないし、返されても困る、というのがある。


「そちらで捨ててもらえませんか?」

「それはちょっと……」

「ですよね……」


 血液汚染されたものを返されたくないというこちらの気持ちはわかってくれてるようだけど、失くされたとか大事な物だとか、あとでトラブルになっては困るのだろう。


 もう一枚、彼女の上にかけてあったジャケットも別の隊員がどうしますかと聞いてくる。橙色の髪の彼のものだ。


「俺は返してもらいたい」

「あ、はい」


 外国人の彼のことは、誰もがちらりと見ていたが、流ちょうに日本語を話すのでだんだん気にならなくなっていったようだ。


「じゃあ、ビニール袋か何かを頂けたらありがたいです」


 二人それぞれジャケットを入れる袋を貰いながらも、彼は血で汚れたジャケットを構わず手で探っている。


「ごめんなさい、汚しちゃって」

「いいよ、緊急時だし。むしろ人命救助、すごいじゃん」


 ……どこで日本語覚えたのだろう。なんだか軽い。でも自然な口調で、アクセントも違和感がない。


 救急隊の人は、リュクスの「神宮光」という日本の名前と、彼の自称「ジョン・スミス」という嘘のようにありふれた名前とそれぞれの電話番号をメモしていく。


 赤ちゃんが産まれたのはすぐだったけれど、そのあとの救急隊の対応などにつきあって、四十分ぐらいはここにいたことになる。


 見ていた人たちも立ち去り、一時期は、急病人の対応、ということでストップさせていた電車も定期的に動くようになった。


 血に汚れた腕は、救急隊の人から貰ったウエットティッシュで拭いて概ねふき取れているけれど、やっぱり手は洗いたい。


 電車から降りていく人たちの横で向かい合う二人。


 じゃあお茶でもという事にはなりたくない。先手を制してリュクスは口を開く。


「じゃあこれで――」

「俺の記憶は削除しなくてよかった?」

「……」


 リュクスは思わず顔をこわばらせた。突然、しかも今。でもタイミングを狙ったとしか思えない。

 なんのこと、というタイミングを失ってしまった。随分砕けた口調だけど、ごまかしが通用しない雰囲気だ。


 場慣れしている。色々なことに。緊急事態や処理に。

 平和な日本人には感じない、以前のアレスティアにいた時の一部の人間に感じていたような感覚。


 リュクスの変化に気づいたのだろう。彼の目が鋭くなる。

 何をしたのか、彼は感づいている。


「彼女にしたのは、記憶に干渉して衝撃を和らげただけ。お産は自信になるけど、こういう場合は後でトラウマにもなるから」


 今は呆然としているけれど、公共の場で産んでしまった、というのは後でつらい記憶になりかねない。


「別に責めてるんじゃないし。純粋な疑問」


 疑問、という割に目は鋭い。リュクスも図るように答える。


「記憶の抹消自体はできないわ」


 彼の記憶はもう消去できない。リュクスのことがしっかり刻み込まれてしまった。消そうとしてもできないし、そもそもそこまで強い力ではない。


「周りには、あなたが対処してくれたから。ありがとう」

「一応全員に目は光らせていたから大丈夫だとは思うけどさ」


 すごいと思う、入れ代わり立ち代わりの人たち全員に目を配れる。彼がいなければ、もっと大変だった。


(この人、何者?)


 少なくとも、普通の人じゃない。外国人でも、ただの外国人じゃない。


「じゃあ次。本名は?」


 リュクスは、きゅっとシャツを握り締めた。なぜ、この人はこんなことを聞くのか。なぜ、何かわかっているような様子なのか。


 睨み上げたのは、半分はごまかすため、半分は本気だ。

 ていうか、背が高い。日本人に慣れていたから、やり取りをしても彼の方が背も高くて迫力があって敵わない気になってくる。


「救急隊に告げたのは本名よ。大事な赤ちゃんを取り上げたんだもの。偽るわけがない」


 ないとは思うけど、例えばこの後、母児の状態が悪くなり出産の状況を聞きたいとか、病院や母親本人から聞かれないとは限らない。


 法的に赤ちゃんを取り上げることが許された国家資格なのだ。いつでも自分の行為を証明する覚悟はできている。その一番根本である名前を偽るわけがない。


 そして続ける。


「そしてあなたの質問に答える義務はない。協力してくれたから答えたけど、もうこれ以上は――」


 話さない、と続けるつもりだった。


「――ティアナ・マクウェル」


 彼が口にした名前に言葉を止める。

 呆然として頭が真っ白になる。リュクスの反応に、彼は喜ぶわけでもなく、今までの人好きのする顔から一転させ、生真面目な顔でリュクスを見据える。


 逃げることも誤魔化すことも許さない熟練された気を放っている。


「座標は君を示してるけど、推定年齢も容姿も違うから迷った。でも、そのネックレス」


 そしていつの間にかリュクスのシャツの上に飛び出ていたネックレスを指さす。


 先ほどジャケットを脱いだ時に、ひっかかったのかもしれない。


 ただ、そんなことで出てくるだろうか、とちらりとよぎる。


 虹色で材質の不明な金属の鎖の先は、蕾を模した台座、そして見事なエメラルドの輝き。リュクスはそれを思わず手で押さえ隠す。


「君は、ティアナ・マクウェルだろ?」

「……ちが……わか」


 違う、といいかけ、わからないといいかける。ネックレスをぎゅっと握り締めて一歩下がる。

 違うと言えばよかった。リュクスの迷いに、彼は容赦しない。


 でも不意に顔をクシャッと緩めて、目元を懐かし気に和らげる。


 伸ばされた手は頭に触れようとしている。何しようとしているのかわからないが払おうとしたとき「……ようやく」と絞り出すような声が耳を打った。


 陽気に見せかけつつも、油断のない戦士のような目の前の彼が出したとは、思わなかった。


 何度か彼は呼吸を整え、堪えているようだった。


 声も目も、力を入れている。感情を、まるでこみあげてくるような熱い思いを飲み込んだ声音で彼はリュクスにはっきりと言い放った。


「――俺は、ウィル。ウィル・ダーリング。ボスの命令で、娘の君を連れ戻しに来たんだ」

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