2章.東京編
第15話.夜が始まる
エレベーターを降りたとたんにドンドンドンという聞きなれた重低音が響いてくる。
微妙にずれた音を奏でているので、三台位だろうか。
この騒然とした気配に内心重いため息をつく。今晩も忙しい、荒れる。
この音は産科病棟特有の胎児心音だ。
手のひらより小さい二つのパッドをお腹に貼り、片方のパットでは胎児の心拍音を響かせ胎児の健康度を、もう片方のパットは圧を感知して子宮収縮――お腹の張り具合、つまり陣痛の強さを記録する。
聞こえてくる心拍の音で、胎児が元気そうだと判断しながらリュクスはナースステーションに入った。
この“音”がゆっくりになれば、胎児の心音が"落ちた“と異常を察知し、助産師や研修医が駆け付ける。産科で働く者は、この音を耳で聴き分ける。
バタバタと走り回っている気配があるのに人がいないのは、超忙しいから。
「ひーちゃん。よろしく」
「よろしくお願いしますー」
「お願いします」
「お疲れ様です、よろしくお願いします」
ひーちゃんと呼ばれ、背後から夜勤で組むリーダー兼主任の中島さんと、物事をはっきり言う笹谷さん、熊谷さんに挨拶をかえす。
ここは三次救急指定病院で、高度医療を提供する病院だ。十四階まで病棟があり、屋上のヘリポートでは、重症患者の受け入れもする。
ちなみに一次病院はクリニックなどの町医者、二次は中等度の患者の治療をする病院だ。
そしてこの病院の産科は周産期センターという、他の病院では診られないハイリスク合併の妊産褥婦の入る
だいぶ老朽化が進み、現在は別の敷地に新棟を立て直ししているところ。あと数十年後には、そちらに移るらしい。
リュクスは以前ここの常勤だったが、現在は大学院に行っているため、夜勤専門のバイトにしてもらった。ただICUは入院患者さんの経過を知る必要があるので、リュクスは毎回、単発でこなせる分娩担当になる。
主任の中島さんはリーダーなので、全体のまとめ役だ。
鳴り響くモニター音に、止まらない電話。日勤者が「搬送来るの?」「さっき先生が断ってました」という声が奥から響いている。
(……搬送来ないんだ、よかった)
内心ほっとする。三次救急なので、どんなに忙しくても常に他の病院から重症患者が送られてくる。けれど、先生が断ったらしい。
リュクスは廊下からは見えない位置にある壁の白板を見る。そこには入院している産婦の名前がずらりとある。三つの分娩室も、五つの陣痛室も埋まっている。
「
分娩室の一つに書かれた名前にリュクスが目を止めたのは、その産婦さんが特別だからだ。今回、医師が搬送を断ったのはそのためだろう。
白板には、来須那知子、
TWINは双子のこと。ダブルセットアップは、経腟分娩と帝王切開、両方の準備をしてあるということ、38w3dは38週3日のことで、0×は初産婦を示す。
分娩室に今いる来須さんは、双子で経腟分娩をトライするということ。双子の分娩はとてもハイリスクだし珍しい。ほとんどがリスク回避で帝王切開になるご時世だ。
「カイザー《帝王切開》にならなかったんだね」
中島さんが言う。
帝王切開のことを自分達はカイザーと呼ぶ。ドイツ語で
ちなみに英語では
「産まれそうなんですか?」
自分が受け持つのか、それとも日勤帯で産まれるのかは重要だ。
分娩担当になるリュクスが尋ねると、通りかかった日勤リーダーの中野さんがCTGの結果の感熱紙の束を持って歩いてくる。
「もう少しかかるみたい。山田さんがついてる」
「山田さんが取り上げて帰りますか?」
「どうかな。山田さんは17時半には出なきゃいけないからね」
ツインの分娩は滅多に経験できないから、助産師としては赤ちゃんを取り上げたいだろう。
それに日勤帯で関わったのに、そこで終わりというのは未練も残る。残業してでも取り上げていくという助産師もいる。
ただ山田さんは保育園のお迎えで、すぐに病院を出なきゃいけない。
「ひーちゃんになるんじゃない? ひーちゃん、確か先週お産の説明で訪室してたよね。だからいいんじゃない?」
「そうですね。一度お会いしています」
産む直前にいきなり担当が変わって「初めまして」だと産婦さんも緊張する。ただ今回、一度顔を合わせているので大丈夫だといいのだけど。
来須さんは、
――
けれど、実はお腹の中で足を引っ張り合う。
臍の緒から
けれど来須さんは、満期まで何も異常を起こさなかった。とてもレアな人だ。
「推定体重も理想的ですよね」
「下の方にいるⅠ
双子の場合、母体のお腹の左右に赤ちゃんがいて、下がっている方をⅠ児、その次をⅡ児という。
そして、いわゆる普通に頭を下に向けている
双子は、産むときにもリスクが高い。
今回は、胎児が両方とも頭位だから、帝王切開ではなく経腟分娩のトライアルになったのだろう。
――逆子の分娩は難しい。赤ちゃんは頭の方が大きいので、通常は頭が出れば、あとはすんなり身体が出てくる。けれど逆子は足が出たあと、一番大きい頭がつかえて出てこなくなってしまう可能性もある。
来須さんの場合は、一人目の胎児の方が大きくて、二人目が少し小さいというのも理想的。最初に大きい子を産んだ方が、次はすんなり出てくる。
推定体重が2500gというのは、小さめなので少し懸念もあるけど、母体は二人合わせて5200gの大きさの赤ちゃんがいるのだ。これ以上大きくなるのは、きついだろう。
双胎の分娩を介助するのは緊張してくる。けれど、他の産婦も受けもつから、それだけではいけない。他の人のカルテもめくりながら頭に入れていく。
申し送りを待つ間、主任の中島さんが、リュクスに声をかけてくる。
「ひーちゃんって、思いきりハーフって顔してるよね。どこの国だったっけ?」
「イギリスですね。でも父親の方がミックスなんで色々」
こっちに来て変えた栗色の髪と顔立ちは日本人には見えない。
イギリスという説明はテキトー。日本人は、外国人を見ても国の判別はできない。西欧人が、日本人と中国人と韓国人の違いがわからないのと同じ。だから適当でも通じてしまう。
「名前は日本人だよね。あっちの人らしい名前じゃないの?」
胸のネームプレートは“
「一応、ミドルネームは“リュクス”とつけられてますけど、長いので省略しています」
「へー」
笹谷さんが画面を凝視しながら、テキトーに返事をしている。
その態度にも笑ってしまうし、つけた名前にも自分でも苦笑してしまう。
あの黒髪の騎士に転移させられた場所は、なんと日本の東京だった。
ユーナから聞いていたトーキョーという場所。少しは聞いていたが、色々と驚き馴染むのが大変だった。
それから六年。大学に行き、リュクスは助産師として働いていた。
「言葉難しくなかった?」
「日本育ちなので、言語は苦労してないですよ」
今更、聞かれていることに苦笑してしまう。
人って、そういえば気になっていたんだけど、ということを突如聞いてくる。
リュクスが日本育ちというのも、言語に苦労してないというのも嘘だ。
アレスティアはラテン語を基にするロマンス語に近くて、フランス語は簡単に習得できた。英語は系統が違うが、簡易化されているので難しくない。
日本語はかなり苦労した。この世界で、日本語は相当難しい言語とされているのがよくわかる。
「うちの姪っ子がさ、助産師目指すって言うんだけど、日本語が壊滅的でさ。ひーちゃんの方がよほど上手だと思ったけど、日本育ちなだけか。で、なんで助産師になったの?」
「手に職をつけようと思っただけです」
ありがちで、それ以上訊きようがない無難な返答をする。
リュクスが助産師を選んだのは、ひとつは塔の魔法士として医学をおさめていたから。お産は、人間の営みがある以上、どの世界、どの国にも必ず求められるので、医学では必須。
そして
こちらに来て、帰れないとわかってからは、生活のために助産師のコースを選んだ。
アレスティアが落ちて、自分はなぜか転移陣で脱出した。
けれどなぜこの東京に飛ばされてきたのかわからない。聖女の故郷だから彼女に未練があったのかもしれない。
(ふと気がつくと、まだ彼女を思い出し探している)
そんな自分が嫌になる。
ぼんやりしがちな意識を戻して、目の前の産婦情報の並んだ名前に集中する。
つかの間の雑談は終わり、日勤が続々と電子カルテのパソコンを持ってきて申し送りが始まった。
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