第38話

「ヒール×水属性魔法×風属性魔法! 『ヒーリングストーム』!」


 アロマの香りを水属性魔法で湿らせて、それを風属性魔法の竜巻で周囲の動物達に付着させる。動物は大抵毛があるので、その毛に匂いが付着すれば、その香りが徐々に人間への恨みで引き起こされた闘争本能を鎮静化させることができるはず。


 狙いはどうやら成功したようで、周囲から敵意のような感情が揺らいでいく。それもそうだろう、動物は鼻が利くのだから。一応自分の鼻に詰め物しておいて正解だったぜ。


「ぐふぇ(ええかおりやのぉ)~」


「あ、お前のこと忘れてた」


 ヤクザ犬の頭をブンブンと振り回して意識を覚醒させる。頭に前足をがっしりと掴み直し体をブルブルした。よし大丈夫だな。

 ぐぅすかとまったりした空気に当てられて敵意を喪失している動物の中、一人佇む獣がいた。帽子のゴムが首にひっかかりうなじを隠し、弾ける髪の毛は触覚のように広がり、飼育員らしい紺色のジャケットが風に乗って波打っている。髪の毛が顔を隠しているせいで表情はうかがい知れないが、感情は伝わってくる。


「がるるる(気ぃつけや、匂いは確かにお嬢やけど何か変や)」


 ヤクザ犬の鼻がそう言うのなら間違いないのだろう。しかし様子がどうにもおかしい、立ったまま眠っている? 夜目遠目のため断定はできないが、まぁ初見でもカレンのヒールによって大人しくなっていたし、効果は実証されている。なら他の動物と同様にヒールの鎮静効果が効いていると思っていいかもしれない。


 ゆっくりと地面に降りて、ジリジリと近づいていく。背中が猿のように丸くなっている、自分が人間であるという自覚すらなくなっているのだろうか? はたまた人間である自分を否定するために、自らの存在を人間から獣へと変質させようとしているのかもしれない。そうだとして、何故彼女がそんなになるまで人間を恨んでいるのかが分からない。


 だから語らねばならない、ちゃんと生きて、お互いの思いを語りあかそう。食卓を囲みながら。そういう未来を思いながら手を伸ばす。


「わん(危ない)わん(離れろ)!」


 ヤクザ犬が頭の上で吠えた。僕は予め木に引っかけていた超伸縮キーチェーンを利用して背後に移動する。いや、これは移動ではない、回避だ。

 皮膚を裂き、肉を千切るような爪、牙の切っ先から我が身を守るための回避。とても人が生成した物だとは思えない鋭利な刃物が空間を切る、さっき僕がそこにいた空間を。


「ぐるるるるぅがう!」


 しーちゃんの顔は髪がしな垂れてうかがい知ることができないが、伝わる、人への純前たる悪意が。闇に陰って化け物にしか見えない。まるで人間には、見えない。


 ヒーリングストームによって、動物の闘争本能を沈静化できたと思っていたのに、できていない? しかし他の動物は沈静化できているはず。落ち着いた香りによって、闘争本能を沈めたのだから。


 ならば彼女を突き動かしているのは、本能ではない。

 人間が自然界で進化をするために欠かせなかった、人間が真価を発揮するために欠かせなかった、それは理性。


 彼女は、落ち着いて、冷静に、ちゃんと、人間を滅ぼそうとしている。


「がう(わしの我儘やったんかもしれん)」


 ヤクザ犬が弱々しく嘆息した。


「がう(わしが人間に飼われたばっかりに)がう(無意識のうちに人間と仲良うしてほしかっただけなんやろうな)、わふ(お嬢が幸せやったらとか思ってたけど)わん(人間を憎むお嬢に人間と仲良うしてもらうなんて)――」


「よく見ろ」


 頭に乗っかるヤクザ犬の頭にポンと手を乗せた。そして正面に向き直す。


「ちゃんと見ろ、ちゃんと向き合え、あれが幸せそうに見えるのか? あれが彼女が望んだ姿だと思うのか? 確かに理性的に人間を滅ぼそうとしているのかもしれない、昔嫌なことがあって、それで向き合えずにいるのかもしれない。だけど、それだけが幸せの道な筈はないんだ。話せば分かるはずなんだ」


 ギルドで食事をしていた時の彼女は、とても幸せそうだった。少なくとも僕はそう見えた。


「だから、見捨てちゃいけないんだよ。皆が目を背けても、皆が腫れ物に扱っても、僕らだけは、彼女から目を背けてはいけないだ」


 僕らがで救われなかったのは、そういう手が差し伸べられなかったり、その手を一度は背けてしまったからだ。周囲の人はそれで嫌気がさして離れて行ってしまって僕らは独りになった。もう少し寄り添ってくれる人がいたら、心を許すことができたのかもしれないのに。

 けれど、そんな人がいなかったから、僕らは生きていけずにここにいる。だから。


「僕は諦めない、たとえ死んでも寄り添い続ける。だから家族のお前が簡単に諦めるな!」


「がぶ!」


 噛まれた。


「なんで噛むんだよ! めっちゃ良いこと言っただけじゃん! シリアスな空気を噛みついて遮断するの良い加減やめろよな!」


「うがうが(若造がわしに講釈垂れるな)!」


 あんまりだった。こいつが道を踏み外しても手を振って見送ってやる、絶対にだ。

 ようやく牙を頭皮から離し、今度はがっしりと前足をホールドさせる。先ほどよりも、力強く。


「……ふん(ふん)」


 彼も覚悟は決まったようだ。ならば僕も腹をくくろう。腹に、くくろう。

 僕はキーチェーンを構え、クルクルと回転させる。そして真っすぐにしーちゃんへと投げた! キーチェーンはぐるぐると両腕ごと体を縛り上げる。急に身動きが取れなくなったためか動揺しイモムシのようにうねる。今しかない!


「いっけぇぇぇぇぇぇ!」


 伸びたキーチェーンは縮む力によって僕の身体としーちゃんを引き合わせる。そして僕らの身体が密着した。


「きゃう(誰やおまえ)!?」


 ヤクザ犬が叫ぶ。夜目遠目で分からなかったけれど、至近距離で見ればようやく確信が持てた。やはりスタンガンによっていつもよりも感覚がバグっているらしい、全然気づかなかった。


 目の前のこいつが、しーちゃんの服を着た類人猿、ホモサピエンスであることに。囮作戦にまんまと騙されたのだ。自分が恨みの対象である人間だからその形を獣にしようとしているとかではなく、単純に人間と獣の中間の生物だったから気づけなかったのだ。


 だが感覚がバグっているとは最初から分かっていた、だからこんな手段を取らざるを得なかった。だから腹を、否、腹にくくらざるを得なかったのだ。


「がう(後ろからもう一人お嬢の匂いやと)!?」


「分かってる! 本番はここからだ!」


 僕は振り返った。そしてホモサピエンスに括りつけた紐を手から離す。その瞬間、身体は伸縮性の成すがままに引っ張られる! 予め後ろの木に引っかけていた紐が、くくられた腹を引っ張ったのだ。

 タンクトップのシャツとパンツという、色んな意味でセンシティブなしーちゃんが一瞬驚いたように見えた。攻撃しようとする獲物から超高速で近づいてくるのだから面食らうだろう。その隙を逃す僕じゃない! 横に避けるよりも早く、僕らは激しく抱きついた。


「うぐぅ……!?」


 唸る声は間違いなくしーちゃんだった。確信を持てた僕はヤクザ犬にめいっぱい命じる。


「行ってこい!」


「わおーん!」


 ヤクザ犬はしーちゃんに、心の闇に飛び込んだ。

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