第22話

 どうやら平和解決が望めそうだと安心した時、ふと緊張感が緩んだ。そして緊張感が緩んだ瞬間、下半身の蛇口も緩んだのだ。ちょっと行儀が悪いけれど、今から畑近くに住んでいる農家の方のトイレを借りるには距離があるので。


「すまん、ちょっとそこら辺でお花摘んでくる」


 と言って早々に踵を返した。「今度はあんな大きいの出さないでね」とカレンの声が背中から聞こえたのを無視して早々に駆ける。あんな軽口に答えている場合ではない。カレン達に見えないくらい遠くへ。

 ある程度距離を歩いたところで、とうとう膀胱が限界を迎えようとしていた。動物に迷惑がかかりにくい場所がないものか探していたけれど仕方がない、もう適当なところでしてしまおう。と蛇口のエイムを、小便が跳ねて自分にかからないような場所に合わせた時。


 ────ゾワッ!


 と、背筋が凍った。この感じ間違いない。嫌な予感が発動した。けどこんなタイミングで!? え、何が起こるっていうんだ? と考える暇もなく、すでに放たれた液体を放出する。


 ……しばらく出し、まだ出し切っていない、そんなタイミングで、地面から黄色い粒のようなものが立ち込めてきた。

 一瞬小便が跳ねてきたのかと思ったけれど、違う。

 跳んできたのではなく、飛んできたのだ。

 羽ばたいて、翅をはためかせ。

 それも、数えきれないほどの大勢で。


 ブーンブーンブーンブーンブーンブーン。

 ブーンブーンブーンブーンブーンブーン。

 ブーンブーンブーンブーンブーンブーン。

 ブーンブーンブーンブーンブーンブーン。

 ブーンブーンブーンブーンブーンブーン。


 聴覚を通して神経に伝わるこの危機的羽音、不快な音色、命を確実に奪うための特性を兼ね備えた最悪の生物が今、目前いっぱいに広がっていた。森の風景にモザイクがかかったような、それほどの数に息を呑む。

 ヤバイ、そうだ。森といえばこいつらがいた。自分が原因で死んでしまった友人と、その昔こいつらから逃げ回ったのを思い出した。たしかあいつが2リットルコーラを流したのが原因だった。


 そりゃ怒る。炭酸でないにしても、自分の巣に液体を流し込まれては。

 スズメバチはもうカンカンに怒っていた。攻撃されたと思い一斉に巣から姿を現す。

 急いでズボンを上げて後ろへ走る。だが地面はでこぼこなので、フラットなところで走るよりも当然そのスピードは遅くなる。

 羽音が大きくなる。

 しかしスズメバチには関係ない、でこぼこもない空間をただ飛べばいいだけなのだから。

 羽音が更に大きくなる。

 くそ、ズボンが黒いから一目散の僕を追いかけているという可能性もあるのかもしれない、このままでは追いつかれる。

 羽音が更に、更に大きくなる。

 キーチェーンを出そうにも、こんな不意打ちをされては急遽物質創造するのも難しい。なかなか手から創造されてくれない。このままではブスブスと刺されてハチの巣にされてしまう!


 羽ばたく風が、首筋に伝わる!


「そんな洒落た死に方は嫌だぁーーーー!」

 

「わんわん!!!」


 と聞こえたかどうかは定かではなかった。僕は正座でうずくまり、背を丸めて頭を抱えていたから。叫んだと同時に現実を逃避した。このまま毒が体中を流れて細胞が破壊されて死んでいくんだ、折角第二の人生が始まったと思ったらこんな素人キャンパーみたいな死に方するんだと。


 これまでいいことなんて1つもない人生だった。

 嫌なことがずっと目に付く、ずっと心が落ち着かない。自分の人生を生きている心地がしない。ずっとそんな人生だった。

 けれど、最近は、転移してからだが、ちょっと楽しいって思えるようになったのに。

 心地いいって思えるようになったのに。明日を楽しみだって思えるようになったのに。

 さながら走馬灯の如く、これまで経験してきた過去を振り返っていると、また先ほどの幻聴が聞こえてきた。


「わんわん!」


 いや、幻聴じゃない。おかしい、死んでいない? それかもしかしてまた転移したとか? そう思って顔をて目を開く。変わらず景色は森の中だ。と言っても真っ暗な森でもなければ、イヴという女性と出会ったような真っ暗だけの空間でもない。まるでスズメバチなんていなかったかのように、ただ木々生い茂り、木漏れ日が差し込んでいた。


 だが、それだけじゃなかった。追加で後ろから「わんわん!」という鳴き声が聞こえてきたのだ。ゆっくりと振り返る。そこには茶色い毛がボウボウに生え、目が隠れている雑種の小型犬だった。まさかこいつが助けてくれたのか?

 見ると、しっぽを振って見えない口から真っ赤な舌を出して近づいてきた。……人間様のお役に立てたから、撫でてほしいのだろうか。

 可愛いところがあるじゃないか、助けてくれたのに何も礼をしないのは失礼なので、その顔に手を差し伸べる。ふわっとした毛が指の間を通り、生き物のぬくもりが手に伝わる。


「わん(なに気安く触ってんだクソガキ、お嬢の恩人だからって調子乗ってんじゃねぇだろうな? ああ?)」


 ……喋った?

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