第17話
野生動物と遭遇した時はどうするのか。例えば熊は臆病な生き物なので、予め鈴を携帯することで居場所を知らせて相対することそのものを避けたり、仮に相対したとしても無暗にびっくりさせないようにゆっくりと後ずさり、熊を視界に捉えた状態で離れるのが効果的だとか。では外敵だと判断され、今すぐにでも突進してきた場合はどうすればいいだろう。
死んだふり? NO。
「逃げる!」
幸いにもこの記憶を失った転移者が突っ込んでくれたお陰で、僕達が出入口側に位置することができた。まずは広い場所に出ないと生きて帰ることはできない。そう踵を返した時。
「駄目!」
と、カレンは振り向かなかった。あと少しでも近づけば野生の強靭な力で食い散らかされるかもしれないのに一向に引かない。しっかりと地面を踏みしめて彼女と対峙している。杖を構えて戦う姿勢は見せるものの、制圧するというよりは、傷つけずに無力化したいという意思を感じさせる声音だった。
両手を広げて姿勢を低くし、グルグルと唸る彼女に優しく語り掛ける。
「大丈夫、私たちは敵じゃない。貴女の味方よ」
しかし警戒心を解くことはなく、獣の転移者は大きく吠えた。動物は出来る限り戦いたくない生き物である。だからこそ威嚇行動によって相手を追い払い余計な体力を温存するのだが、カレンはそれでも引かなかった。戦う意思を最初から持っていないから。
「まずは貴女の御家に勝手に入ってごめんなさい、悪気はないの。私は貴女に話を聞きたいだけなのよ。そうしたらすぐに出ていくわ」
「黙れ! 人間はそうやって嘘を吐く。騙して奪って支配する!」
カレンの母のような語り掛けにも動じず、獣の彼女の毛が更に逆立つ。言ってもカレンは逃げてくれないだろう、僕を自立させるために先生役を買うくらいのお人よしだから。
けどそれとは別に気になることがある。確かに彼女は僕の質問に答えず名前を話さなかったけれど、一般的にはどうだろう。道端でバッタリと出会った某かに対して「貴方の名前は何ですか?」と聞いて、全員が正直に答えるだろうか? それに彼女の口ぶり、何か引っかかる。記憶を奪われていることが前提なら、警戒するかどうかの判断がそもそもできないはずではないか。先ほどのドードーも、元の世界では人間に油断しまくって100年やそこらで絶滅した。それは人間のような天敵がいるという情報を持っていなかったからだ。
カレンがまたジリジリと歩み寄る。
「大丈夫、私は嘘を吐かないから、私は貴女の味方よ、絶対に裏切ったりしない」
見ると、カレンが右手に持つ杖から薄く白い煙のような気体が出ていることに気づいた。あれは、そうかヒールだ。リラックス効果があるヒールによって獣の彼女の怒りを鎮静化させるつもりなのだ。それにこの洞穴は空気の通り道がないから、効率よく落ち着かせることができる、故に逃げなかったのか。
見ると、だんだん充満してきたヒールの煙が獣の彼女を覆い、逆立つ毛がふわふわと沈んでいく。吊り上がる目尻はだんだん下がっていき、胡坐をかいた体勢に変わっていく。そんな獣の彼女をカレンはしっかりと抱きしめた。自身の服が泥で汚れようとも、しっかりと。
「怖かったね、疲れたよね、もう大丈夫だから」
「……父さん」
眠そうに獣の彼女は呟く。いや父さんではないだろ、母さんでもないけれど。だがこうもリラックスしたところを見るに一見落着と思っても良さそうだな。食い殺されなくて良かったぜ。
……ん? あれ、僕は今、何に気づいた?
何か違和感があったような気がする、何か重大な、盲点のようなものを今目の前で見送ったような感覚があった。気のせいか?
「すっかり寝ちゃってるわ、ふふふ、大人しくしてると可愛いよね」
カレンは彼女をお姫様抱っこすると、ゆっくり起こさないように出口へ歩き出した。僕も先立って外へ出る。
すると、外には何匹かの獣がじっとこちらを見ていた。敵意は感じられない、だがじっと見ていた。何を思っているのかは分からないけれど、その視線は気分のいいものではなかった。
とても気分が悪い、そんな目で見るな。
僕は悪くない。僕は悪くないんだ。君たちは彼女のことを家族のように思っていたのかもしれないけれど、奪うわけじゃない。だから、見るな。
――――ゾワッ!?
大勢の視線の中から、何か別の視線を感じた。視線を感じるなんてことは現実的にはあり得ない、恐らく向けられた感情がクリエイトエナジーとなり僅かに伝わったというほうが正しい気がする。彼女が向けた僕らへの視線が敵意となって突き刺さったように、カレンが彼女を諭したように、その向けられた感情は、その思いは、その想像は伝わってしまう。
まずは耳を澄ませる、風が枝葉を揺らしてガサガサと音を立てているものの、どこか不自然な感じがする。更にその方を見た。枝葉に紛れて見えない、木漏れ日がエメラルドの輝きを放ち乱反射して僕の視線を遮るけれど、風に煽られているならば、木漏れ日の光はこのような形をしないはずだ。
人が、直立で立っていない限り。
「カレン、その子を任せていいか?」
突然の提案にカレンは意味不明とばかりに眉をひそめた。
「え、良いけど、トイレ?」
「ああ、ちょいと大きいやつをな」
僕は1人で走り出した。
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