鎌鼬(5)

 女は駅から歩いて自宅へと向かっていた。

 抱えていた仕事がひと段落し、打ち上げと称した職場の同僚との飲み会の帰り道。

 すっかりと日は落ち、月が雲に隠れた夜道を亀水川沿いの堤防に等間隔に設置されている街灯の灯りだけを頼りに鼻歌交じりに歩いていた。


 もしアルコールの影響が無ければ、もし今の解放感に酔う事が無ければ、もう少しだけ早く気付いていたかもしれない。


 それでも結果は変わらなかっただろうけれど。


 それまで気分よく奏でていた鼻歌を止めると、女は周囲が奇妙な程に静かな事に気付いた。

 確かに少し前までは虫の声が河原の方から聞こえてきていたはずだ。

 しかし今は虫の声どころか、住宅街からの車のエンジン音や生活音すら何も聞こえてこない。


 女は急に不安に襲われる。

 見通しの良い堤防の上を続く道。

 周囲をきょろきょろと見回すが、そこには誰の姿も見つける事が出来ない。

 それでも女は歩く速度を速める。

 何に怯えているのか自分でも分からない。

 誰もいない。

 何もない。

 虫の声だってたまたま一斉に鳴くのを止めただけだ。

 時間的に車が通らなくて静かな事だってあるだろう。


 早足で進みながら、女は自分に言い聞かせるように心の中でそう思った。



――ざわり



「――ひゃ!!」


 何かに首筋を撫でたように感じ、女は驚いてその場で足を止める。


 首に手を当てると少し湿ったような感触がある。

 雨の雫か、鳥が糞を落としたのかと反射的に空を見上げる。

 しかし頭上には闇夜が広がっているだけで、鳥の姿も次の雫も見当たらない。

 そもそも女の髪は腰の辺りまで長く伸びており、直接首筋に何かが当たる事など考えられなかった。


 そして湿った手の平を見る。

 そこには確かに透明な液体が付着している。

 しかしただの水ではない。

 僅かな粘着性のある液体。

 無意識に臭いを嗅いでみると、少しだけ生臭い、獣のような臭いがした。


 猛烈に湧き上がってくる恐怖。

 女は肩から下げていたバッグを手で握り、ヒールであることもいとわず走り出した。


 女の自宅までここから歩いても十分も無い。

 走ればその半分も掛からない時間で辿り着けるだろう。


 街灯の下を駆け抜けると、それまで後ろにあった自分の影が先回りしたかのように前方へと移動する。

 それが何者かに追いつかれたように感じ、その度に心臓が痛い程締め付けられた。


 どうしてヒールなんて履いてきたんだろうという後悔が頭の中に浮かぶ。

 何度も躓き、転倒しそうになるのを必死で堪えながら走る。

 しかし数分も走らないうちに息が上がり始める。

 無音の世界に聞こえるのは自分の荒い呼吸音とうるさい程に鳴り響く心臓の音。

 ここ数年まともに運動なんてしてこなかった事に悔いが残る。

 何度も挫折したダイエット。ずっと続けていればもう少し身体が楽だったかもしれない。

 女はすでに何故走っているのか、何から逃げているのかを考える事もなく、現実から逃避するかのようにつまらないことを考えていた。


 堤防から降りる階段が見えた。

 あれを下りれば自宅のある住宅街に入る事が出来る。

 そうすれば夜とはいえ、誰かは通りかかるだろう。

 相手からすれば夜道を全力で走る変な女に見えるかもしれないが、今はそんな事を気にしている場合ではない。

 それほどまでに女の心の中は恐怖で埋め尽くされていた。


 そしてようやく階段へと辿り着き、その最初の一段目に足を下ろしたその瞬間――



――パキン



 ついに限界を迎えたのか、女のヒールが軽い音を立てて折れた。


「――きゃ!!」


 突然の事に大きくバランスを崩す。

 前のめりに崩れていく身体。



――シュン!



 同時に何かが風を切るような音が一瞬聞こえ、何故か切断された女の長い髪が宙に舞う。

 しかし女にはその事に気付ける程の余裕は無かった。


「――やっ!――いっ!――あ!――あ!――ああ!!」


 段差に何度も何度も身体を打ちつけられながら階段を転がり落ちていく。

 全身至る所から猛烈な痛みが走る。

 しかし唯一の救いだったのは、転倒した際に肩口から倒れる形になった事で、横に回転しながら転がり落ちた事で頭部を大きく打ちつける事はなかった。


「うぅ……いた……い……」


 無事とはいえないまでも、何とか意識を保ったまま堤防したの道路まで転がる事に成功した。

 痛む身体を堪えながら立ち上がろうとした時、ようやく自分の髪が短くなっている事に気付いた。


「……え?……なんで?」


 階段を転がり落ちた事で切れるなんてはずはない。


 肩口くらいまで短くなった自分の髪に手を当てながら考える。

 まるでハサミで切ったように真っすぐに切り揃えられた髪。

 そこでさっき聞こえた風切り音は、何かが自分の髪を切った時の音だったのではないかと想像する。


 そしてもしあの時、ヒールが折れてバランスを崩していなければ、切られていたのは髪だけじゃなく――


 女は自分の首筋に手を当てながらぞっとする。

 

「きゃああぁぁぁぁぁ!!!」



 その後、悲鳴を聞きつけた近隣の住民たちによって女は保護され、警察の事情聴取の結果、髪を切ったのは変質者もしくは通り魔による犯行ではないかと推測されることとなる。


 これが連続通り魔事件の発端となった最初の事件だったのだが、女は階段からの転落によって全身に打撲等の怪我を負ったが、直接切られたりの怪我はしておらず、その上犯人を見ていない事もあり、何者かに襲われたという女の言葉の信憑性についても怪しいところがあるのではないかと思われていた。


 その為、二件目に起きた殺人事件との関連が疑われる事になるのに、更にもう一人の命が必要となるのだった。




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