絡新婦(6)

「やめて……来ないで……」

「ふふ……はるかぁ……」

「愛莉…来ないでってば……」

「ねえ?いらないの?涼くん美味しいよお?」


(嫌……嫌……嫌……)


 晴香は腰が抜けたどころではなく、全身の力が抜けて動けない。

 身体は恐怖で激しく震え、目からは自然と涙が流れ落ちる。


 目の前にいるのは愛莉などではないナニカである。それはすでに晴香も理解している。

 それでも愛莉の面影のある顔で、その聞き慣れた声で囁かれると、どうしてもそう割り切ることが出来なかった。


「食べないんだ……。大好きな晴香と、大好きな涼くんをシェアしたかったのになあ」


 カツンカツンと床を爪が叩く音がする。

 歪な笑顔を浮かべたままで、愛莉は追い詰めた獲物を捕らえるべくゆっくりと晴香へと近づいていく。


「はるかあ……」

「ハァ…ハァ…ハァ…」


 異形の蜘蛛が晴香に迫ってくる。

 晴香は震える身体を懸命に動かして後ずさりしていく。


「私の大切な幼馴染で――」

「ハッ…ハッ…ハッ…」


 背中に当たる壁の感触。

 逃げ場の無くなった晴香を長い脚を広げて覆うように取り囲む。

 晴香のすぐ目の前まで愛莉は顔を近づけ――


「心を許せる唯一の親友――」


 顎の下まで伸びた舌でべろりと晴香の顔を舐めた。


(違う!こんなのは愛莉じゃない!)


「大好きよ」

「い――嫌あぁぁぁ!!!」


――バチン!


「ぎゃあ!!」


 晴香の首元に噛みつこうとした瞬間、強い衝撃を受けた愛莉が悲鳴を上げて吹き飛んだ。


(……え?え?何?)


「はるかァァァ!!お前、何をしやがったァァァ!!」


 灯に浮かぶ愛莉の顔は激しい怒りに歪み、その口元は醜く爛れていた。美しかった長い髪は乱れ、目を見開いて恐ろしい形相で叫ぶ姿に、すでに愛莉だった面影はどこにもなかった。


「わた、わたし、何も……」

「じゃあ!その肩の光は何だァァァ!!」


(肩の……光?)


 左肩の辺りからシャツ越しにぼんやりとした光が放たれていることに気付いた晴香は、震える手でシャツの首元をずらした。

 それは直接身体から放たれているような光。

 星のような形の光の痣。


(何これ?こんなの今まで無かった……)


「保険をかけておいて良かった」


「誰だ!!」


 突然聞こえてきた男の声に飛びのく愛莉。

 一気に部屋の天井角まで跳び、そのまま壁と天井に足を貼り付けたような体勢となる。


(今の……声は……)


 リビングの入り口に人影があった。

 全身黒の法衣のような恰好の長身の男。


「物部……先輩?」


 聞こえてくる低く落ち着いた声は間違いなく物部のもの。


古角こかど春香」

「――は、はい!」

「古角はお前の苗字じゃないか。俺はそこの蜘蛛女の苗字を聞いたんだぞ」

「え?あ、その……」


 物部の顔が怖すぎて、つい反射的に自分の苗字を言ってしまったとは言い辛い。


「お陰でここを探し出すのに手間がかかった」


 物部はすっと視線を床に移す。

 そこには原型を留めずに食い散らかされた三人の亡骸が転がっている。


「どのみち間に合わなかったか……」


 三人を見る物部の表情は普段と変わらない無感情なものだったが、晴香にはどこか憂いでいるように見えた。


「あら?物部先輩じゃないですか。どうしてこんなところに?家にまで校則違反を指摘しに来たんですか?」


 軽口を叩く愛莉だったが、その口調にははっきりとした警戒心が見て取れる。


「ふん。校則違反くらいなら反省すれば許してやるんだがな。これは――反省したくらいじゃあ見逃してやるわけにはいかん」


「じゃあ、どうします?」


「どうされたいか希望があれば聞いてやる」



 二人の間に強い緊張感が走ったのを晴香は感じ取っていた。



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