第12話

妻が妊娠したことでいくらか態度が柔和になった羽本にも、ここぞとばかりに当たり散らした。

「不安定になるのは分かるけどさ、もう少し落ち着きなよ。先生も順調だって言ってたじゃん」

 なだめるように眉を下げ、腹をさする羽本の手を、女はわざと大袈裟に払いのける。


「不安定になるのは分かるって、何が分かるの? この怖さの何が分かるの?」

「こっちだってやれることは精一杯やってるだろ」

 とにかく今日はもう眠ろう、と促す羽本に、女はいつまでも食ってかかる。

「なにも分かってないよ。本質的なことをなんにも」

「本質って?」


「眠れないんだってば。こうなってからもうずっと眠れない。もうどうしたらいいか分からない」

「きっと子供産んじゃえばまたぐっすり眠れるようになるよ」

「違う。妊娠してからじゃなくてすずみになってから」

「は?」

「もう嫌だこんな生活。子供なんか生みたくない」

「すずみ」

「すずみじゃない!」

 

 適当な方向にリモコンを投げると、窓に当たり派手な音を上げた。

肩で息をする女を、夫は黙って見ている。静寂が空間を覆う。


「私はすずみじゃない。だから子供もきっと子供なんかじゃない」

「あのさ」

「信じられないなら信じなくてもいい。でも私はぐっすり眠りたいし、お腹のものに消えてほしい。自分ではもうどうしようもできないの。こんな生活もう嫌なんだってば!」

 

 金切り声を上げると、同時に肩が震えた。

いつもであれば不安定な妻をなだめようと薄っぺらな笑みを浮かべる羽本が、今日はやたらと大きなため息をついた。


「そんなこと言われてもなぁ」

 呑気に呟いてソファに深く座り込むと、寄りかかって天井を見上げる。

「こうなりたいって、そもそもあなたが望んだことでしょう」

 

 声色が妙に冷静で、どこか張りつめている。

女の知っている羽本の声ではないようだった。


「こんなこと別に望んでない」

「自分が言ったこと忘れちゃった? 散々愚痴ばかりこぼしておいて、いまさらこんな生活したくないって言われても、もう僕にもどうしようもできないよ」

 

 脳が引きずり出されるかと思うほどのめまいがして、羽本の顔が大きく歪む。一瞬、全然違う顔に見えた。

ふらついた女の足元をちらりと見ると、羽本のけだるげな視線は女の顔までなぞった。


「怒ってる顔も可愛いね、奥さん」

「……なにを知っているの」

「何も知らないよ」

「嘘だ。とぼけないでよ」

「困ったな」

「あなた誰なの?」

「僕は僕だけど」

 

 ははぁ、と楽しそうに膝の上で手を組み、羽本は女を凝視した。

まるで下手な格闘ゲームを見ているように斜に構えた笑みだった。

「もうすぐ出てくるんじゃない?」

 その言葉が合図のように、突然腹に激痛が走った。

腹を内側からナイフで刺されているような痛みを起こし、立っていられない。

ひざまずいて床に這いつくばると、羽本が立ち上がった。


「……私を、どうするの」

 噴き出る汗が目に入り、男の輪郭がぼやける。

その表情は笑っているように見えるが、なんとなく悲しんでいるようにも見えるし、憐れんでいるようにも見える。

あまりの痛みに全身が引きつる。遂に耐え切れず男の足を掴もうとしたところで、カットがかかったように、意識は切れた。

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