第11話
流れる景色や時の中を、自分はただベルトコンベアーに乗せられて見ているだけのような感覚に陥っていた。
みんなが女を見て手を振ったり、踊ったり大騒ぎをしているように感じる。
女はただ座ってそれを見ている。
流れていく幸福をただ見ている。腹に何かを宿したまま。
幸福の渦中にいるようでいて、ただそれを眺めながら時間の狭間に滑り落ちているだけのような気がしていた。
自分は何も変わらない。
ただ周囲はやたら大袈裟に女の人生を盛り上げてくれる。
この世界で唯一の良心であった犬飼でさえも、この人生を盛り上げるための道具であったとしたら、と考えただけで、呼吸をするのも辛かった。
だとしたら、このコンベアーの終着地はどうなっているのだろうか。
ただ何もなく、拾い上げてくれる人もいなければ装置もなく、固い床に叩きつけられてぐちゃぐちゃの液体となり、終わり。
日に日に大きくなる自身の腹を見ているとふとそんな想像をしてしまい、思わず叫び出しそうになる。
「あんた、お菓子ばっかり食べるのやめなさいよ。お腹の子に悪いでしょうよ」
母は頻繁に女に会いに来るようになった。
大学を出てから一度も家に帰っていなかったのだが、こうしてみるとやはり老けた、と思う。
そして先日三六歳を迎えた自分の顔は、日を追うにつれこの母に似てきている。
「やだちょっとなに、一人でヘラヘラ笑って」
母は女を見て怪訝な笑顔を浮かべる。
ふふ、ふふふ、と笑いが堪えきれなくなっていることに気付く。
「どうしたのよ。すずみ」
ただ母が老けていることがおかしかった。
自分が母と子として生きていたのは、恐らく別の世界、みすずだった頃だ。
それがこちらに来ても顔も性格も母は母で、しっかり年老いている。
なのに、娘の名前を当たり前のように『すずみ』などと呼ぶ。
「大丈夫。大丈夫」
と笑って見せると、母は心底安堵したようにため息をついた。
この母が本当の母かどうかも分からないのに、やはり自分はどうも、この人が悲しむ顔は見たくないらしい。
怯えようが慄こうが、腹はどんどん大きくなった。
女が腹の奥底で大事に貯めていた不安や恐怖を、そのまま体現するような大きさまで瞬く間に膨らんでいった。
普段履いていたジーンズが腹にひっかかり、しかたなくウエスト周りがゴム状になっているマタニティ用のズボンを買う。
しまいにはそのズボンすら窮屈に感じ、ダボ着いたワンピースばかりを着るようになった。
その異物は腹の中だけに存在しているはずなのに、全身が重々しく怠い。
買い物帰りに大通りを歩いている時。
小さな子供と手を繋いでお喋りしている家族を見かけた時。
ベッドで眠れぬ夜に耐えている時。
こんな考えが浮かんでは消えた。
衝撃を加えれば成長は止まるだろうか。
思い切って刺してしまえば、と包丁を取り出したことがある。
しかし、できなかった。
であれば圧迫してみようと、ゆっくりと、しかしありったけの力を込めて、自分の腹を押してみたこともある。
強く押せば、腹の中のそれは一旦受け入れようとする。
しかしあるところで柔らかく受け入れることを辞め、控えめに、それ以上いかせまいと抵抗を始める。
頑なではなく、あくまで遠慮がちに、柔らかく。
本当は嫌だけれど、あなたがそうしたいなら……。
とどめを刺そうとしたならば、きっと受け入れるだろうと思えるくらい、思慮深く。
女は手を腹から離して、今度は頭を掻きむしった。
そしてのどが潰れるほどの叫び声を上げた。可愛いやら可哀想やら様々な感情が混ざり合って、自分の手で終わらせることがどうしてもできなかった。
であれば、もういっそ生んでしまえばいいかと納得させる。
そう考えたらひと時穏やかな気持ちになるが、そんな純粋で清潔な風が入ってきた分、再び腹の中にはどす黒い塊がいることを再認識させられる。
この腹から、可愛い赤ん坊が生まれてくるとはどうしても思えない。
どうしたって思えないのだ。
一年以上眠っていない思考は女を崖っぷちギリギリまで追い込み、もう転落する寸前だということに、女は自分が気付けているのかいないのかさえ分からなかった。
時々、例えば腹の塊を出そうと包丁を手に取ったときなんかは、もう崖から落ちているような気さえした。
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