第10話

「今朝経理部に行ったんだけど」

 食後に二人でワインとチーズ鱈をつまんでいると、羽本が足を組み替えて切り出した。


「あの地味なのと仲良いんだね、あなた」

「犬飼君のこと?」

「そういう名前なんだ。知らないけど」

 

 アルコールが入るといくらか気分が良くなる羽本だが、今日は輪をかけて声が大きい。

頬をほんのり赤に染め饒舌に続けた。


「あんまり茶々いれんなよ。ああいうタイプって怖いから」

「どういう意味?」

「ちょっと優しくするとすぐ本気になるってこと。どうせ経験もないだろうし、ストーカーとかになっちゃったら怖いじゃん」

「まさか。大丈夫だよ」

 

 早くこの話題を切り上げたくて、女は新しいつまみを出そうと席を立とうとした。

「ああいう奴見てると学生時代思い出すんだよね。昔よくイジメてたなぁ」

 思わず動きが止まって、すとんとその場に座りなおす。


「……なに」

「あああいう大人しい奴ほど弄ると暴れるんだよ。それが面白くてさ。どうせひとりじゃなにもできないくせに、スイッチが入ったみたいに癇癪を起こす。それを弄るのがまた楽しいんだ」

「昔、イジメとかしてたの」

「うん。ちょっとだけね。たしなむ程度」

 

 茶化してへらへらする顔を見て、頭を鈍器で思いきり殴られたような衝撃が走った。

羽本の人を見下すような態度が徐々に顕著になってきていることは気づいていたが、しかし、そんな男と共に暮らし馬鹿話をしている自分も、彼の犯した過去のイジメに加担しているような心持ちになってくる。


「私シャワー入ってくる」

「ええ、もう少し飲もうよ」

「疲れたから」

 

 すうちゃ~ん、と甘えた声が背中に張りつく。

魔法が解けるとはこういう事を言うのだろうか。

それとも脳内麻薬が切れてきただけなのか。

それが良いことなのか、そうでないことなのか分からない。


風呂に入ると、直後に裸の羽本も入ってきた。

「ちょっと、急に何」

 抵抗する間もなく後ろから女に覆いかぶさると、胸を揉みしだき、乳首をつねる。

痛い、やめて、と抵抗しても男はやめず、強引に女の股に指を入れると間もなく挿入してきた。


どうすることもできずなすがままに組み敷かれているうちに、段々と男の動きが緩やかになってくる。

荒々しさは鳴りを潜め、女の表情を伺うように、良いところを探っては撫で、引っ張ったり舐めたりして、徐々に身体を揺さぶる。

そうこうされるうちに視界が歪んできた。

気持ちよさと熱さで身体が溶けていくような感覚に陥る。


「すずみはこうされるのが好きだよな」

その囁きが風呂場に響いて、女の身体と脳を掻きまわす。

立ったままお湯と唾液の混じったキスを繰り返し、名残惜しく唇を離すと、大きな瞳がそこにあった。


ヌメヌメとした膜に覆われた瞳。

プラスチックのような黒目。

瞼はゴムでできているように固く張っている。

しかし女を見るその瞳は、怒りか、悲しみか、作り物にしては狂おしいくらいに何らかの感情を孕んでいるように見えた。



 梅雨が明け日差しが本格的に歩道を照り付ける季節になった頃、女の身体に異変が起きた。

気怠さに拍車がかかり、股からは不正出血が続いている。

めまいも酷くまっすぐ歩けないほどになっていた。

もしやと思い、思い始めたら確かめなければ気が済まず、初めて行く病院に駆け込んだところ、やたらとにこやかな医者に言われた。


「妊娠していますね。6週目です」

 決して望んでいなかった訳ではない。むしろ羽本はそれをずっと望んでいた。

しかし言われて押し寄せてきたのは喜びではなかった。

途端目の前が真っ暗になり、腹を抱えながら来た道をなぞるように家路についた。


 その日の羽本も相変わらず不機嫌だった。

家の鍵を開けるカチリ、という音で、女はその日の夫の機嫌が分かるようになっていた。

ネクタイを乱暴に緩め節目がちに入ってきた羽本を見て、無意識に肩に力が入る。

しかしどうしても言わなければ、と乾く口を無理やり開いた。


「おかえり。あ、あの、話があるんだけど」

「見て分かんないかな。俺疲れてんのよ。せめて座らせてくれよ。お前どんだけ気がきかないの」

「妊娠した」

「あ?」

「6週目だって」


 鋭い眼光は元の愛嬌を湛えた瞳に戻り、女を見据えた時にはただの黒い点になっていた。

「本当に言ってる?」

「こんなこと冗談で言わない」

 まるで映画の主演でもはっているかのようにぼとりとカバンを落とし、しばらく女を見つめた後、顔を笑顔でクシャクシャにして女を抱きしめた。


「やった! ありがとうすずみ!」

 自分を包み込む背中に腕を回す気力もなく、うん、うんと相槌を打った。

やたら冷静な自分がいる。

どうしてこの世界の人たちはこう、リアクションが芝居がかっているのだろう、とふと思った。


羽本を筆頭に、職場の若い女も中年女性も、今日の産婦人科医もそうだ。

まるでうすら寒い芝居に参加させられているような気分がしてきた。

むしろ芝居である方が説明がつく。急に名前が変わったり立場が変わったり、合点がいく。


やれ両親に報告だ、やれベビーベッドを注文だ、などと動き回る男の目には、女は見えていないようだった。

ふと窓に写る自分を見る。

目はくぼみ、唇は死人のように渇いて、頬はこけている。

目の下のクマはコンシーラーを塗りたくっても隠し切れず、体重は右肩下がりで落ちていく。


相変わらず眠れない。目を閉じても三十分も微睡むことはない。

こちらの世界に来て一年近く、全くと言っていいほど眠っていないのに、こうやって何事もなく生活しているのが不思議なくらいだ。

妊婦になったのに……いや、本当に妊婦になったのか?


だって自分は、本当はすずみではない。

本来の自分の生きている次元ではない世界で妊娠なんてしてしまった。

だったら、この腹に宿した子はどうなる。

もう本当に後戻りできない気がして、倒れそうになった。

頼むから全てが芝居であってほしかった。

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