第9話
仕事の休憩がてらコンビニに寄った先で、茉莉と遭遇した。
なにやらいつもより化粧に気合が入っているのは、おそらく隣にいる男のせいだろう。
豆乳オレのパックを手に取りながら隣の男を見て、思わず声が漏れた。
同じ経理課の後輩。確か名前は犬飼と言ったはずだ。
会社から目と鼻の先にあるコンビニだと言うのに、人目など気にする様子もなく、茉莉はジャケットの上からでも分かる犬飼の細い腕に絡みついている。
まったく、こういうところが浅はかなのだ、と哀れな気持ちになった。
伏し目がちの犬飼の表情をはっきり確認することはできないが、傍から見る分にはそこそこお似合いのように思える。
お互い日陰でひっそり生きている者同士。
同じ部署に所属していながら女は犬飼と話をしたことがほとんどない。
というか彼が誰かと談笑しているところは見たことがなく、もし女がまだみすずだったなら、確実に同族嫌悪の対象であっただろう。
自分にも言葉通りの天変地異が起こったように、茉莉にも犬飼にも、低空飛行なりに
人生の波はあるのだろう。
そっとしておこうと思った。
思っていたのにだ。
何がどうしてこうなったか、犬飼と二人きりで残業をする羽目になってしまった。
犬飼の入力ミスで売り上げの計上漏れが発生し、女がその尻ぬぐいをすることになった。
対応自体はそこまで難しいものではない。
しかしどうも犬飼の仕事ぶりは褒められたものではないらしく、明らかに後輩であろう若い女子社員までもが眉をひそめ「あたしもう関わりたくないんで」とさっさと帰ってしまった。
コミュニケーションをとるのも下手で、おまけに仕事もできない。
他の社員のように見捨てることができないのは、自分もかつてこちらの部類の人間であったからか。自問自答していると、胸の奥がムカムカしてきた。
「すみませんでした、今日」
原因を突き止め修正作業が終わったのは夜九時過ぎ。
更新作業の完了までの空き時間に、犬飼は女の目を見ず呟いた。
「いいですよ別に」
ハードウェアがフル稼働で動いている低い機械音が、誰もいないフロアを駆けずり回っている。
こうやって手持ち無沙汰の時に、よく知りもしない人と共有する時間は本当に苦手だ。
みすずだろうがすずみだろうがそれは同じだった。
久しぶりに緊張して耳の奥がチリチリと熱くなる。
やめておけばいいものを、場を冷えさせまいとつい口に出してしまった。
「そう言えば見ましたよ。コンビニで」
「は」
「仲良くしている女の子がいるみたいで。よかったじゃないですか」
言うと、犬飼は石のように黙りこくって、フレームの細い黒縁メガネをくいと上げた。
ますい、とすぐに思った。
どうやら彼と茉莉とは、そういう関係ではなかったらしい。
というか、そういう関係であろうがなかろうが、こんな風に問うのは下世話であったと、女は言った直後に後悔した。
「なんかすみません。でも誰にも言ってないんで」
「別に言っても言わなくてもどっちでもいいですよ」
「そんなことは」
「どうせ誰も僕やあの人に興味ないだろうし。まぁ僕が社内でも選りすぐりの可愛い
女とイチャついてたら違ってたかもしれませんけど」
早口で言って、自分で納得たかのようにふんと笑う。
正直、面倒くさいと思った。
この手のタイプの人は面倒だ。かつての自分もそうであったからよく分かる。
しかし一方で、得体のしれない清々しさも感じていた。
「もしそうだったら、みんな犬飼さんの名前を一発で覚えるでしょうね」
よかったですね、と付け加えて笑って見せた。
ここまで言っても大丈夫だと言う自信があった。
だって、この手の人間の考える事なら手に取るようにわかるし、第一大声で言えたものではないが、仮に彼に嫌われたとしても、今の女には痛くも痒くもない。
案の定犬飼は目を丸くして女を見た。
重たい前髪から覗く瞳は意外に大きく、肌にはできもの一つない。
思っていたよりも数倍あどけない顔立ちだった。
「まぁそうかもしれませんね。でもよくはないです。迷惑ですよ」
低い声でどもりながら言った。
そんな調子でお互いぽつりぽつりと話しているうちに、更新作業が終了したとポップアップが出た。
何が起こるわけでもなくお互い帰り支度をして、最寄りの駅で別れた。
「ありがとうございました」と犬飼はやたら仰々しいお辞儀をして去っていった。
別に何のことはない。
ただ会社の同僚と話していただけなのに、不思議と気持ちが軽くなった。
すずみになってから蓄積されてきた重しを、犬飼が少しだけ背負ってくれたような気がした。
翌日から、女は自ら率先して犬飼に話しかけるようになった。
案の定毒が強くひねくれている犬飼だが、話しているのは楽しかった。
二人で話す内容と言えば自虐か過去の不幸自慢が大半であったが、それを笑い飛ばすのも楽しかったし、自分の自虐や今の生活の自慢話を、偏見に満ちた一言で一刀両断されるのもスッキリした。
「最近犬飼君と仲良しですね」と課内の女子に言われたことをきっかけに彼の人となりを話すと、次第に皆も犬飼に話しかけるようになった。
あんなに毒まみれで人をこき下ろす能力に長けているくせに、女子社員に話しかけられると捨て猫のように飛び上がって怯えている姿がなんともいじらしく、可愛かった。
それを茶化すと、「全部あなたのせいだ」と覇気のない目で睨まれた。
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