第8話

すずみになって二日目、席についてしばらくパソコンを睨んでいると、ふと思い立って指輪をはずした。

内側には『eternal m.s』と彫刻が施してある。

mは羽本の名だろう。確か下の名前は大と書いてまさるだったはずだ。

そしてsは……。


「すずみちゃん、お昼行こう」

 はっとして振り返ると、今度は入り口付近で知らない中年女性が手を振っていた。

女の傍では朝話しかけてきた若い女もいそいそと弁当箱を持ち出している。

首筋がヒヤリとして、全身の鳥肌が立ち、思わずその場に立ち尽くす。どういう訳か目頭が熱くなった。


「ん、どうしたのすずみちゃん」

 目を思い切り閉じ、再び開く。

「大丈夫です」と言って駆け寄った。


 食堂で席に着くと、知った後ろ姿が視界に入ってきた。

向かいに座る若い女の背後で一人、大きな図体を丸めて食事をしているのは、茉莉だ。

必要以上にカールを内巻きにした茶髪ですぐに分かった。

随分せわしなく肩が動いているように見える。

ちゃんと噛んで食べているのかと心配になるレベルだ。

思わず凝視していると、茉莉は早々に立ち上がった。


まだ昼休みは始まったばかり、そんなに急ぐほどの用事があるのかと思うほど急いだ様子で食器を持ち上げると、手が滑って食器を落とした。

銀のスプーンが落ちる金属音が響き、周りの注目を一身に浴びる。

ふと、茉莉と視線が合った。

雑なアイテープを施した歪な二重は、なにかに怯えるような焦りをたっぷり湛えている。


蠅のように這いつくばって食器を拾い上げると、茉莉はそのまま椅子を押しのけ去って行ってしまった。

集中していた視線は散り散りになり、やがて何事もなかったかのように、そして話題にも上がらず、平穏に戻る。


女と一緒に来た二人も、新しくやってきた新入社員の話に花を咲かせている。

適当な相槌をうちながらも、女の脳裏には茉莉の表情が張りついて離れなかった。

彼女の心情が、痛いくらいに分かるからだ。

きっと今頃心の中で視線を注いだ人間すべてに悪態をつき、根腐りした思考回路にさらに養分を与え、しかし体は恐怖で震えて、死んでしまいたいくらいの羞恥心に潰されそうになっていると、手に取るように分かる。


「すずみさん、全然食べてないじゃないですかぁ」若い女が語尾を伸ばして言った。

「まだダイエットしてんの? そんなのしなくても痩せてるのにさ。ああ、まぁでも身体は引き締めておいた方がいいのか、あんないい男に見られるんじゃねぇ」

 

 中年女性が大口を開けて笑う。

他愛のない会話で笑い合える同僚がいる。自分にしかできない仕事もある。

洒落た家がある。そんな家に住めるほどのお金もある。最愛の夫もいる。

脳裏に焼き付く茉莉を哀れに思い、無意識に笑みがこぼれた。

自分はもう「みすず」ではなく、「すずみ」であるということに、何の不満もなかった。


 一カ月も経てば、女はすっかりこの生活に順応していた。

薄給の為我慢していた美容室にも既に二回行き、半ばあきらめていた虫歯の治療も始めた。

欲しいものを好きなだけ買って今月の給料が底をついても、しょうがないな、と羽本が買い与えてくれる。

 

 初めは羽本と同じ空間で暮らすことも息が詰まるほどに緊張していたが、今では同じベッドに入ることに躊躇はなくなっていた。

頑なだった女の躊躇を、羽本が強引にほどいたからだ。

羽本は、女を毎晩抱いた。


自分でも知らなかった女の好きな言葉、気持ちいい場所を、羽本は熟知している。

始めは自分の手で口を押さえ修行のように耐えていた女も、次第にそのこと自体が馬鹿馬鹿しくなり、今では毎晩よがって涙を流している。

そんな女をいたぶるように、羽本は強引に女を揺さぶった。

こうなってくると物欲も、性欲も、なにもかものタガが外れ、もっともっとと欲しくなる。


女自身もそれをしっかり自覚していた。

みすずだった頃に欲しくて欲しくて渇望して、それでも手に入らなかったものが、こんなに簡単に手に入ったのだ。


仕事をなるべく早く切り上げて、毎日夫の帰りを待った。

疲れ顔で帰ってくる夫のご飯を作り、風呂を沸かし、二人で入って、夜は抱き合って眠る。

誰がどう見ても満たされた夫婦。

これ以上の幸せはなかったが、女がすずみになってからの世界で、拭えない違和感がいくつかあった。そのうちの一つが羽本だ。


みすずだった頃の彼と、今の彼は少し違うように感じるのだ。

例えばそう、態度や言葉遣い、女に向ける眼差しなんかが少しだけ違う。

しかし、と女は夫について掘り下げることを躊躇した。

よく知りもしない他人への態度と、家族に接する態度が違うのは人間誰しも当たり前のことではないのか。


完璧に見えた羽本にだって虫の居所の悪い日や、無理をしている日だってある。

人間味のある彼の姿を垣間見て、支えられていることにむしろ感謝すべきだ。

そう納得させることで羽本に対する違和感は暫くの間落ち着いた。


 落ち着かなくなったのは、すずみになって半年以上が過ぎた頃。梅雨入り宣言がなされそこもかしこも湿り気を帯びた季節に入った頃だった。

仕事が特に忙しく、残業をして帰ってきた羽本は、あからさまにピリピリしていることが多くなった。


「いいよなぁ、すずみは楽な仕事ができてさ」

 というような愚痴をよくこぼすようになった。

「別に、こっちも繁忙期は忙しいけど」

「そっちの繁忙期なんてたかだか二、三カ月だろ? こっちなんて年がら年中繁忙期だっつーの。しかもアホな部長にまた仕事割り振られてさ。マジで最悪」


 羽本の好きな豚肉がたっぷり入った焼きそばと、パプリカのサラダを差し出す。

途端にはっと渇いた笑い声がした。

「料理も手抜きかよ」

 と吐き捨てて箸をカチカチと鳴らしている。


その行動の真意は分からないが、羽本がこうなった時、というか男性がこうなってしまった時の対処法を女は知らない。

何を話しかけても状況は改善しない気がするし、逃げるように出ていくわけにもいかず、ついその場で黙り込む。


あからさまに不機嫌を体現されていることに気づいてはいるが、しかしだから向こうが自分に何を求めているのか分からず、じっと息を殺す。背中のあたりが緊張して、ピリピリと痺れる。

ダラダラと遊ぶように焼きそばの豚肉をつまんだ後、羽本は静かに箸を置いて立ち上がった。


「俺カップラーメン食べるわ。それ捨てといて」

 躊躇なく分かった、と頷いた。

キッチンに向かう羽本の後ろ姿を見て、大きなため息が出た。

同時に何か、自分の息ではない、身体のどこかから空気が漏れたような感覚にも襲われた。


 スマートフォンに映し出される画面には、どれだけ探しても女の求めている情報は得られなかった。

タイムスリップ、ドッペルゲンガー、マルチバース……。

どれを深く調べたところで、自らに起こった事象に該当するものはない。

青く光る画面を閉じ、薄ぼんやり灯る間接照明を眺めた。


隣では羽本が規則的な寝息を立てている。

ピリついて当てつけのようにカップラーメンを食べても、今晩も何事もなかったように丁寧に抱いた。

いや、いつもよりも細やかで優しかったかもしれない。

淀んだ気持ちと身体をベッドに押し付ける。


この生活になって拭えない違和感のもう一つは、眠れないことだった。

みすずだった頃は寝ても寝ても眠かったのに、すずみになってからはどれだけ眠くても眠れなくなってしまった。

すぐに眠ってしまうのも大概辛いものがあったが、全く眠れないのも切羽詰まるものがある。


なにか追い詰められていくような、擦り切れていくような焦燥感。

意識がある中で夜明けの光が差し込んでくる度に、何とも言えない徒労感に襲われる。

眠れないものだからリセットもできず、重しを抱えたまま生活をし、それが日々蓄積されていくような感覚。


これも自分の身に起きた現象になにか関係があるのだろうか。

しかしどれだけ探しても見つからない。

そうこう考えているうちに窓の向こうが薄紫に光り出した。

今日も朝が来てしまった。

少し目を閉じて、考え事をしていただけだった。

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