第7話
会社は間違いなく今まで通りの場所に、今まで通りに建っていて、今まで通りの事業内容で、何度確認してもそれは間違いがなかった。
羽本も今まで通りに営業部のエースで、人懐っこい人気者で、当たり前のようにそこにいる。
なにもかも違っていたのは女ただ一人だった。
まず、営業部に女の机はなかった。
かつて机を窓から投げられた思い出が蘇り卒倒しそうになっていると、部署中から生暖かい笑みと眼差しが向けられる。
「おいおい、いくら大好きな旦那さんと離れたくないからって営業部にまでついてこなくても」
その柔らかい眼差しが全て自分に投げかけられていると、初めは信じられなかった。全員顔は分かるが、言葉も交わしたことのない人達だ。
意味が分からず突っ立っていると、曖昧な笑みを浮かべた羽本がやってきて女を外に連れ出した。
「なに、どうしたの」
「どうもこうも。私の席は」
「んなもんここにあるわけないでしょ。すずみは経理部の人間なんだから」
言われるがままに下の階に降り、引けた腰で初めて見るフロアに立つと、ここでもやはり、皆がこれでもかと笑顔を向けてあいさつした。
「おはようございます羽本さん。今日は少し遅いんですね」
見たこともない整った顔の若い女がそう言って駆け寄ってくる。
何が起きているのか見当もつかずその場で佇むが、しかしちゃんと、見覚えのあるマグカップはそこに置いてあった。
営業部で長年使っていた、無機質なベージュのカップが置いてある席に座ると、そこにはありとあらゆる社内の勘定の書類が雑多に置いてあった。
「はぁー繁忙期ってやんなっちゃう。せっかくの春なのに、桜を見るたび思っちゃうんですよね。ああ、決算の季節だなって」
肩をすくめておどけたようにそう言うと、若い女はさっさと行ってしまった。
書類を見る。
不思議なことに何がどういう意味でどんな書類なのかが分かる。
おまけに責任者欄にはきっちり『羽本』の判子も押してある。
一番上の引き出しを開けると、乱雑にしまわれる筆記用具の中に黒いプラスチックの容器を見つけた。
なんの変哲もない安物のゴム印だ。キャップの縁に金の塗料で枠が引いてあるが、既に剥れてボロボロだった。
キャップをとって、資料の隅にひとつ、判子を押してみる。
『羽本』と記されたインクは幾分薄くはなっているものの、そうされることが当たり前かのように堂々と紙に居座っていた。
なにより女が驚いたのは、その判子がもう何年も使い古したみたいに、やたらと自分の手に馴染んでいたことだった。
女の名前がみすずからすずみになって、初めて家に帰った日のことだ。
会社から電車で二駅のデザイナーズマンションに羽本との住まいはあった。
1LDKの、決して広いとは言えないが二人で暮らすにはしっくりくる間取りで、淡いブラウンの皮のソファが印象的だった。
この黒と茶色を基調とした部屋はおそらく羽本のセンスだろう、と女は思った。
きっと自分がやれば、色や配置などわけもわからず好きなものを好きな場所に置くに決まっているし、リモコンもティッシュも観葉植物も、全ての置物が本来あるべき場所に置かれて満足しているように感じた。これは女には到底できない技だった。
肩幅ほどのキッチンと密着するように申し訳程度のユニットバスがついていた元の部屋とは違い、広々とした独立キッチンには和洋中の調味料がずらりと並んでいる。
南向きで昼でも夜でも爽やかな風が入ってくる明るい部屋。
寝室には猫の柄のダブルベッドが鎮座して、思わず固まってしまった女に対して「さっきの続きする?」と羽本は茶化し、目の前で当たり前のようにズボンを脱いで皺でよれたスエットに着替える。
この部屋に似合わぬ間抜け面の猫のベッドは、おそらく自分のセンスだと感じ、女は思わず苦笑いを浮かべた。
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