第6話

泣きじゃくる赤ん坊を眠らせるために揺らすベッドのようなもの。

それが何だったか、名前も形状も思い出せないが、なんだかそんなものに揺らされているような心もちがして、心地いい。

ゆらゆらと微睡んでいると、次第に肩のあたりに生暖かい体温を感じる。

揺り動かしていたのは道具でもなんでもなく、人の手だと言うことにようやく気付いた。


「起きて。遅刻するよ」

 優しいがどこかカサついた低い声が、女をこちら側へと引き戻す。

目が覚めると、ホテルのベッドで全裸のまま眠っていた。

「大丈夫? 寒くない? 布団かけようとしたのに嫌がるんだから」

 呆れたように言って、起き上がる肩にバスローブを被せる。

「そろそろ支度しないと。もうじき昼だよ。延長料金取られちゃうよ」

 

 おぼつかない目をこすって声の先を見ると、既に元のスーツに着替えた羽本が皮ベルトの腕時計をはめていた。

一晩過ごしただけなのに、それでいて最後まで達することもできなかったというのに、なんとも距離の縮まったものの言い方をしてくる。

それとも、これはもう事後とカウントして良いのか。


「はいぼーっとしない。出たらなんか食べて帰ろうぜ。蕎麦にでもするか」

 なにかおかしい、と感じた途端、ものすごい違和感がせりあがってくる。

経験はないが、事後の親近感にしては近すぎる気がする。

なにより女は蕎麦が大好物だ。それは間違いないが、それを羽本はおろか、会社の人間にも、もちろん茉莉にも、ひいては母親にも言ったことなどないのだ。

偶然だろうか、それとも……。


「あのう、なにかのドッキリでしょうか」

「は?」

 

だって、なんだか距離感が、と口元を掻いた時にはっとした。

あまりにも滑らかに爪が肌の上を滑ったのだ。

大嫌いだった大きなイボが、ない。


「なに、まだ寝ぼけてんのかよ」

 自分で被せたバスローブを脱がせ女を立たせると、遠慮もなしにブラジャーをつけ、パンツを持って下にかがんだ。


「ほれ」

「やめてください!」

 思わず声を張り上げて後ずさった。

いくら何でも昨日脱いで洗濯もしていないパンツを、好きな人に履かせてもらうだなんて。


「今更恥ずかしがる仲じゃないだろ」

「さっきから何言ってるんですか。たった一回でこんなに距離が近くなるのが、その、羽本さんの普通なんでしょうか」


 どもりながら一息で言うと、羽本は眉間に皺を寄せて首を傾げた。

「あのさ、その敬語ってなんかのプレイなの? 今度はそういうことしたい感じ? 別に俺はいいけど、でも時間が無いから続きは家でね」

 言って、いたずらっぽく片方の口角を上げる。

思わずドキリとして、さらに後ずさった。


「あのう、家って、どっちの家ですか」

 はぁ、とうんざりしたように首を振る。

「俺達の家だよ。さっさと帰るぞ」


 プレイは終わり、と言いたげな様子で女を見ている。

困惑してブラジャー姿でおどおどしている女を冷ややかな目で見て、投げやりに手元を指さした。

指さされた自分の左手を見て、全身が稲妻にでも打たれたようにビリリとした衝撃が走る。

 

左手の薬指に、まるで何年も前からそこにいましたと言わんばかりに、くすんだシルバーリングがはめてあった。

「目は覚めましたか。さ、腹減ったし帰るぞ、すずみ」

「……すずみ?」

「自分の名前も忘れちゃったわけ? まったく、しょうがない奥さんだね」

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