第5話

直前に誰かに何かを言われたような気がした。

場所は分からず、怒られたのか、褒められたのか、はたまた慰められたのかも分からない。


ふわりと白い輪の中を通ったような感覚を覚えて、ふと目を覚ます。

威圧感のある低い天井が見える。

うっすらと苦い香りがする。コーヒーのような、カビのような、よく分からない古臭い匂い……。


「あ、起きましたが吉岡さん」

 耳元に籠った声が滑り込んできて、途端に心臓が爆発したように飛び上がった。

隣でジャケットを脱いだ羽本が女を見て笑っていた。

「いやすみません。大丈夫でしたか? 今なんか魚みたいに飛び上がりましたけど」

「は、はい。ここは」

 

 思い出せず頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる。

美容室代をケチった伸ばし放題の髪が、ひときわごわついて指に絡まった。

「吉岡さん、酒が弱いならそう言ってくださいよ。連れてくるの大変だったんですから。住所聞いても名前呼んでも全然起きないし」

 聞いて状況を粗方理解すると、女はほぼ土下座のような形でベッドに顔を押し当てた。


「すみませんでした!」

「いや、別にそこまでのことでは」

「お、お金はもちろん私が出しますので。もう夜も遅いし、このまま帰ってもらって。もちろんタクシー代も出します」

 

 一気に言い終わってから一呼吸ついて、そういえば今何時だっけ、と腕時計を見て戦慄する。深夜二時を回っていた。

再び気持ち悪くなって、頭を抱えた。

「目まぐるしい人ですね、吉岡さんは」

 

 ふにゃりと羽本が笑っている。

彼も酔っているのだろう、顔は緩んで、いつもよりもなんというかこう、柔らかさに拍車がかかっている。

「や、だってこんな状況初めてで」

「宇宙人ってこんなにそそっかしいんですね」


窓の外で騒がしいバイクのエンジン音が通り過ぎ、静寂が訪れた。

はたと羽本を見る。

「私、なにか言いましたか」

「自分は宇宙人だと」

 

 今すぐベッドから飛び降りて、ついでにホテルの窓から飛び出したい気分だった。

顔を真っ赤にしてわなわなと手を震わせる女をよそに、羽本はペットボトルの水を飲んでコロコロと笑う。


「そんなこの世の終わりみたいな顔しないでくださいよ」

「だって、絶対馬鹿だと思われる」

「思ってませんて。むしろ興味深いですよ」

「は?」

「吉岡さんほど入れ込んではいないけど、僕もそういう話は好きです。だから興味ありありですよ」

 

 一度ベッドに座りなおしてから、羽本は上半身をはっきりと女に向けた。

女は正座を崩さず固まってしまう。

好きです、という言葉が自分に投げかけられたような錯覚に陥り、いやいや、と大袈裟に笑って見せる。


「宇宙人に興味があるんですか」

「そうですね。興味あります宇宙人に」

 ずるずると、羽本がこちらに向かってくる。

一応男女がホテルのベッドで向かい合っていると言うのに、羽本の弾んだ声は露ほどの下心も感じさせず、無邪気に笑う表情も相まって本当に好奇心を持った子供のようだ。


「だから、吉岡さんにも興味があります」

 そう言ってから、唐突に女の唇に自身の唇を押し付けた。

 爪が食い込んで血が出そうなほど握りしめている女の手に触れると、ふはっと息を漏らして笑う。

「緊張しすぎ」

「だって……初めてなんですこういうことするの」

「へえ、そうでしたか」

「すみません。三十五にもなるのにおかしいですよね私」


置かれた状況に理解が追いつかない中、女は許しを請うように羽本をじっと見つめた。

彼から目が離せなかった。

少し湿った指が、女の頬に触れる。顔全体を覆いそうなほど大きな手なのに、皮膚は意外と柔らかくて気持ちがいい。女は自分が猫になったような不思議な気分に陥った。


何度も何度も夢に見たあの手とまったく同じだ。

「おかしいもなにも、宇宙人に人間の常識なんて通用しないんじゃないのかな」

もう一度女にキスをする。

次はもう少し時間をかけた、深いキス。


「光栄だなぁ、あなたとこんなことができるなんて」

細めた瞳に吸い込まれそうだった。

宇宙人は自分の方なのに、ぬめぬめした膜に覆われた羽本の大きな瞳は、少し人間のそれとは違っているように見える。

なんというか、人間とはまた別の生命体のような。


「こちらこそよかったです。……地球が滅びる前にこういう経験ができて」

 あはは、と乾いた声を上げてから、羽本は女の腰に手を回し覆いかぶさるように抱きしめた。

時間をかけて何度も唇に触れ、女の唇から緊張感が解けたところで来ていたグレーのカーディガンを脱がせる。

首筋に舌を這わせ、初めての感触に引きつる女の身体を可愛がるように下着を脱がせていく。

あっという間に裸になったことに、女は驚いた。


「すみません、なんか……」

「まだ何もしてないのに謝らないでくださいよ」

「いや、でも、汗かいたから汚いかもですし」

「そんなことは気にしなくていいんです。僕に任せてくれれば」

 言って、羽本は丁寧に女の身体を撫で、先端を優しく舌で吸った。

 

衝撃が走るたびに甲高い声が出て、ビクンと下半身が跳ねる。

酔いと眠気と、羞恥心で意識が混濁してきた。

何度も何度も妄想の中で愛し合った、あの状況が今現実になっている。

生まれてこの方ずっと低空飛行だった自分の人生が、まさかこんな形で浮上するとは。


湿った筋肉質の肩におずおずと手を伸ばし、目を閉じた。

今この瞬間を堪能しよう。

きっと最高の時間になると感じ、女はなんとなく泣きそうになった。





 瞳に映る狭い天井が、まるで強度の高いモザイクをかけたようにぼやけている。

服を着る気にもなれず、素っ裸で抜け殻のように横たわる中肉中背のなんと滑稽なことだろう。


そう思うと惨めな気持ちに拍車がかかって、また涙がこめかみを伝った。

シャワールームの開く音がして、湯気と石鹸の香りを纏った羽本が歩いてくる。

折り目のしっかりついたバスローブを来て、なんともゆったりした足取りで頭を拭きながら呑気にやってきた。


「あ、吉岡さんも入ります? その格好のままじゃ風邪ひきますよ」

「大丈夫です」

 思いのほかカドの尖った言い方をして、羽本とは反対側に身を捩じった。

結局、羽本と交わることはできなかった。


体中を撫でられているあいだは本当に気持ち良かったのだが、中心に指を入れられてからは痛みの方が勝り、しまいには羽本が何をしても濡れるどころか不快感が勝ってしまい、それでも最後まで、と身を固めて乗り切ろうと躍起になったが、遂には羽本の方からギブアップを宣言したのだった。


「いやぁ、すいませんねなんか。僕に任せとけみたいなこと言っておいてお恥ずかしい」

 不貞腐れて、何も答えなかった。

勿論彼を受け入れることができなかった自分が腹立たしいのだが、なぜか羽本にも腹が立っているような気がしたのだ。


なぜやっぱりやめましょう、なんて言ったのか。

なぜそんなにへらへらしていられるのか。

憎いやら悲しいやらで固いベッドの皺を睨みつけていると、次第に視界が薄ぼんやりとしてくる。


ああこんな時まで、と女は余裕のないため息をついた。

こんな時まで睡魔はご丁寧にやってくるのだ。

ふと石鹸の匂いが濃くなり、血管の浮き出た腕が女の腹を撫でる。

驚いて後ろを振り返ると、羽本が女の肩に頬をすり寄せてきた。


「とりあえず今日はもう寝ましょう。どうせ明日は休みだし、吉岡さん眠そうだし」

「……すみませんでした。本当に」

「あなたは悪くありませんよ。ほんと、やっぱ宇宙人相手に叶うはずがなかったなぁ」


 そうこうやり取りをしている間にも涙がボロボロ出てくる。

「やっとだったのに」と思わず呟いた。

「なにがやっとなんです?」

「やっとひとつでも、普通の人が普通にしている人間らしい経験、できると思ったのに」

「……」

「いいんです。気にしないでください。おやすみなさい」

 

 身をさらに丸くして、目を閉じた。

こんなに悲しいことがあっても、すこぶる恥ずかしい気持ちであっても、目を閉じると意識は砂のように流されて、消えてしまう。

自分でも不思議なほどコトリと眠りについてしまう。


 眠りについた先の場所に、誰かがいた。

その人は女に喋りかけてきた。

顔も見えなければ何を言っているかも分からないが、やたらと友好的に話しかけ、理解もできないのに女は心の底から笑い、手を叩く。


もう一生ここでいい。

眠った後のこの世界にいる方がいつだって一番幸せだった。

ずっとこの世界にいたいと、心の底から思った。

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