第4話

 会社から歩いて三分もたたない和食居酒屋の二階が、いつも打ち上げで集まる場所らしかった。

着くなり各々が慣れた様子で上着を脱ぎ、座敷に腰掛けると、早速歓談に花を咲かせ始める。


「ビールの人!」と誰かが声を上げ、手を上げるどさくさに紛れて女も弱々しく手を上げた。

手を上げることでさえ芋虫を鷲掴みにするくらいの勇気がいるのだから、人の輪に入って楽しく談笑する、なんてことはやはり無理だったのだと、着いて早々後悔した。

オフィスの時とは違う同僚たちのこの軽々しい空気感が堪えられなかった。


この場であとどれだけやり過ごさなければいけないのだろう。

決して例えなんかではなく、ライオンのいる檻に放り出されたような緊張感が全身を萎縮させる。

羽本の笑顔に少しでも絆された自分を恨んだ。

案の定、なんとなく着いた順番に席に着いたため、女は八人掛けの小上がりのど真ん中でビールをちびちび飲む羽目になった。


自分以外のそれぞれが三人から五人くらいのチームに自然と分かれ、取引先がどうだ、隣の部署の誰がどうだ、と思い思いに盛り上がっている。

せめて人目につかぬよう端の席に移動しようかと思ったし、いっそトイレに行くふりをしてそのまま帰ってやろうかとも思った。

しかし、できない。

なぜだかこういう時は体が固まって動かない。

この場から立ち去りたいという焦りよりも、少しでも動いて誰かの視線がこちらに向かう恐怖の方が僅差で打ち勝ってしまうのだ。


しょうがなく飲めないビールで舌を濡らし、目の前にある手つかずの漬物を食べていると、隣の人を押しのけるようにして人影が割り込んできた。

羽本だ。

「飲んでますか吉岡さん」

まだ始まってそこまでたっていないのに、既に頬のあたりがほんのり赤く染まっている。


別のテーブルから羽本!と酔っ払いの威勢の良い声が飛んできた。

「あの、呼ばれてますけど。戻らなくていいんでしょうか」

「別にいいんですよ。あいつらとはいつでも話せるんでね」

 羽本があいつら、と呼んでいる中には、部長も混ざっている。

「さすがですね」


 鼻で笑ったように言ってしまった。

「何がです?」

「そうやって誰とでも仲良くなれるの、羨ましい限りです」

「仲良くなれない人だって沢山いますよ。気づいたら嫌われてたりね」

「でも、それ以上に羽本さんのことが好きな人の方が圧倒的に多いですよ」

「あんまり実感ないですね」

「わ、私は、こんなんだから誰からも好かれたためしがないし」

 

 言ってからしまったと思って、思わず目を伏せた。

興味のない人間の自虐を聞かされるほどシラケることはない。

数多くある自分の悪い癖の一つがまた出てしまった、と唇を噛んだ。


「す、すみません。こんな話を聞いてもビールがまずくなるだけですよね。本当にすみません」

 しかし意外にも、羽本は身を乗り出して女の顔を覗き込んだ。

酔ってトロンとした顔がいっそう近づき、無意識に瞬きの回数が増える。


「こんなんだからって、どんなんですか」

「は?」

「いや、今私こんなんだから、って言ったでしょ。それってつまりどういうことかなって思って。どうして吉岡さんは、自分のことをこんなん、って思うんですか」

「いや、それはだって……私は人と上手く話せないし、どんくさいし、それに」

「それに?」

「……寝てばっかりだし」

 

 おずおずと目線と上げて様子を伺うと、羽本は目を丸くして押し黙った後、顔をくしゃりとさせて大笑いした。

作り笑いなんかではなく、心の底から楽しそうな、踊るような声。

愛嬌をたっぷり含ませた目尻の皺に見入った。


「なんですかそれ。そんなの俺も寝てばっかっすよ。いやぁ面白いな吉岡さん」

人懐っこい大型犬のような笑みを眼前に見て、女は思わずビールを煽る。

それからやたらと聞き上手な羽本に促されるがままに、とにかく喋った。


自分を卑下するクセは昔からであること。小学五年生の頃から激しいいじめに遭っていたこと。その事実を母に言うことができず、身体をほうきで殴られても、「虫」だと罵られ体中に油性マジックで落書きされても、仕方なく学校に通い続けたこと。


「それ酷すぎないですか? ていうか、お母さんはさすがに気づくでしょ」

「ううん、うち母子家庭で、父親からの養育費はストップしてたんです。それで母親は朝から晩まで働きづめだったから気付かなかったみたい。でも」

 

 女が言い淀んでいると、羽本は頬杖をついて様子をうかがっている。

こうやって羽本が自分の言葉を待っているという状況が現実とは思えず、とにかく、気持ちが良かった。

「でもある日バレちゃったんです。理由は忘れたけど……。その時の母親の泣きそうな顔が忘れられない。私が劣ってた」

「どういうこと」

「イジメられるくらい人と上手に付き合えない私は劣ってた。そのせいで母親を悲しませてしまったんだって」

「違いますよ。そんな訳ないでしょう。イジメる奴が悪いに決まってる」

 

 思いのほか羽本の声色に力が入っていた。

驚いて目線を上げると、愛嬌のある瞳はいささかの熱を帯び、真っすぐで鋭い視線を女に投げかけていた。

気圧されてどうしていいか分からず、慌ててビールを流し込む。

「わ、分かってます。今となってはそんなこと思っていませんよ。でもやっぱり幼い頃の思考の癖は治らないって言うか。結局母親ともそれっきり、イジメの話はしていません」

 

 いやぁそんなこと、と呟いて、羽本は思案するように遠くを見た。

ううーん、と隣で羽本が仰々しい唸り声を上げている。

「なんだかこんな簡単な言葉でまとめていいのか分からないけど、吉岡さんは大変な人生を歩んできたんですね」

「大変な人生って程でも」

「いやいや、吉岡さんの話を聞いてると、自分なんて恵まれてたんだなって思います。よく頑張りましたよ」

 

 ゴツゴツと筋張った指が女の頭を撫でた。

突然の出来事に動転し、こういう時は何をどうして良いか分からず、ジョッキの底に残ったビールを一気飲みしたところで、くすぶっている感情を打ち消すかのようにとにかく言葉を吐き出す。


「でも、でもですね、もうどうでもいいんです。どうせ地球は滅びるから」

 羽本の瞳が、再び好奇心を滲ませ女を見据えた。

「滅びるとは」

「知ってます? この地球には一定数の宇宙人が混じって暮らしているんですよ」

「え、急になんの話が始まったんですか」

「それで、宇宙人は地球人を審査しているわけです。宇宙連合に迎合してもいいのかどうかを」


「宇宙連合?」

「正確にはもっとカッコいい名前かもしれませんけどね。でも人間は懲りずに争いを繰り返すでしょう? だから宇宙人もそろそろ堪忍袋の緒が切れちゃうかも」

「ちょっと分からないですけど……オカルトの話をしてますよね。吉岡さんは宇宙人を見たことがあるってことでいいですか?」

「あるっていうか、なんていうか……」

 

 もったいぶってヘラヘラしている女を、羽本は訝し気に見ている。

社内一のイケメンを弄んでいるようで、大層気分が良かった。今すぐ茉莉をここに呼んで正座をさせて見せつけてやりたいくらいだ。

なので充分に含み笑いを浮かべた後、まるで世界の一大事かのように深刻に、そして仰々しく言い放った。


「私自身が宇宙人なんですよね」

 先程のように盛大な笑い声が帰ってくることを期待していたが、反応はない。

見ると、羽本は真顔で女を見ていた。

驚いているようでもなく、引いているようにも見えない。

瞳の奥にはいささかの熱もなく、じっと何かを思案しているようだ。

これはそう、戸惑っている。


面白くなって、今度は女が声をあげて笑った。

何人かからの視線を感じたが、そんなことはどうでも良かった。

ふと、体に乗っている重しがとれたような気分になり、爽快感が身体中を駆け巡る。

きっと自分以外の〈普通の人達〉は皆、いつもこんな気分で生きているんだろうな、という気持ちを吹き飛ばして笑った。


「はぁ、いいね。楽しい」

 ジョッキをテーブルに置いた途端、天井と床の座布団がぐるりとひっくり返った。

動画を回しているカメラが床に落ちた時のように、視界が混沌と霞む。

何の前触れもなくこんな状態になるのは初めてのことで、女は一瞬何が起こったのか分からなかった。


「吉岡さん」

 そう呟く誰かの声がして、しかし誰の声とも聞き分けられず、理不尽なくらい強制的に、女はまたもや深い眠りについた。

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