第3話

 目が覚めた時には、ヒビの入った革製のソファの上にいた。

膝の上にはご丁寧に小さな毛布が掛けてある。

イレギュラーな状況にも関わらず、女は特に焦りも狼狽えもしなかった。

この部屋が駅構内の救護室で、自分は倒れてここに運ばれてきたのだと言うことに気づいていたからだ。


この駅でこんな風に倒れるのは、既に何度か経験があった。

毛布を綺麗にたたみ立ち上がろうとしたところで、「起きられましたか」とやたらかしこまった声が滑り込んでくる。

面識のある細身の駅員がやってきて、几帳面に両手で女の肩を支えると立ち上がる手助けをする。


「なにか持病がおありなんですか」と聞かれ何も答えずに一礼すると、駅員はなにか言いだそうとして、やはり申し訳なさそうに「お大事に」と頭を下げた。

駅を出ると、空はすっかり藍色に染まっていた。

腕時計を見ると八時を過ぎようとしている。

そのまま電車に乗り、来た道を戻る動作を再開した。


 道中、何度も蛇行する足を真っすぐに修正しながら、あの駅員が救急車を呼ばなくてよかった、と思った。

病院になど運び込まれればまた検査入院で金がかかるし、母親にも連絡が行く。

そうなったら母親はまた心配そうな顔をするだろう。

ちゃんと検査をした方が良いと散々説得されるに違いない。

その流れが面倒だった。検査ならとっくに何度もしているし、そもそも手取りが十八万にも満たない女にそんな金が払えるわけがない。

大好きな猫も飼えない。マッサージにも行けない。洋服を買うのにも、何度も財布を確認しなければならない。


家賃と食費と日用品を買うだけで給料が綺麗さっぱりなくなってしまう女に、入院は贅沢だった。


 家に帰りシャワーを浴びると、吸い込まれるように布団に潜り込んだ。

案の定睡魔がこれでもかと襲ってくる。

ブーン、と蛾の飛ぶような低い音がした。

また何か交信が来たらしいが、もうスマートフォンを開く気力はない。

災害だろうが暗殺だろうがもうどうでもよかった。

ただ眠りにつく前、気持ちよくなることを誰にも咎められず、罪悪感なく終わらせられる唯一の至福の時間を、スマホなんかに邪魔されたくない。

一日の締めくくりをどう終わらせるか、それはもう決まっている。


 自我と微睡みの狭間で、太くゴツゴツとした指が女の首筋に触れた。

目を深く閉じ神経を集中させる。

指は肩を通り腹を撫で、Tシャツの下の胸に滑り込んでくる。

骨ばった無骨な手ながら、小動物でも撫でるかのように先端に触れてくるその優しさに、思わず声が漏れる。

みすず、と籠ったような声で名を呼ばれる。

目を開けると、奥二重の愛嬌のある瞳がこちらを見て微笑んでいる。

思わず泣きそうになって、女も微笑み返す。

これだこれ。これこれ。


しかし寝入る直前のその人は最高なのに、夢の中に入ってしまえば彼は現れない。

いつだって女は最高の人の最高な愛撫よりも、睡眠を貪ってしまう。

だからこの眠りにつく直前の彼との一瞬の逢瀬は、女の人生の唯一の慰めであり、揺るぎない幸福であった。


 


 吉岡さんて、下の名前なんて言うんですか。

昼過ぎ、淀んだ空気が充満している給湯室でマグカップを洗っていると、後ろから声をかけられた。

ぎょっとして振り向く。

奥二重の瞳がきょとんとした顔で女を捉えていた。

カドのない籠った声は、毎晩寝入る前に脳内再生するその声ととてもよく似ている。

しかし実際にその声が自分にのみ向けられているのは初めてのことで、女はどうして良いか分からず、ただ目を何度も瞬かせた。


「あ、み、みすずですけど」

 言って、途端に後悔の波が押し寄せる。

〈けど〉はいらなかった。〈けど〉とつけてしまうと、言葉が途端に挑発的な意味合いを含ませてしまうような気がしたからだ。


「みすずさんって言うのか。なんか吉岡さんらしくていいですね」

 はい、と野太い声が出て、耳がチリチリと熱くなる。

間を持たせることができない。その能力が自分にはないから、羽本ともっと話したいのに、一方で逃げ出したくて泣きそうになっている自分もいる。

「あ、なんかすいません。慣れ慣れしくしてしまって。急にびっくりしちゃいますよね」

「いえ、別に……」


学歴も良く、顔もよく、背も高く、それでいて人懐っこく誰とでも話す羽本だ。

同僚の女たちの彼を見る目が、明らかに華やいでいるのを知っている。

「顔のいい男は性格が悪い」と豪語している茉莉だって、結局は狂おしいほどこの男を意識していることも知っている。

女だけではない。この男は同性とも上司とも部下とも気付けば仲良くなっている。

やたらと自信に満ちているような言動であるのに、必要とあらば簡単に頭を下げる。

そういうことができる若き青年を、皆は当たり前のようにもてはやした。

敵を作らずトップに立つ。そんなことができる人間は完璧だと思える。


だからこそ、女はこの場から逃げ出したいのだ。

「あの、なにかご用で」

 時代劇のような口調になったことを再び恥じる。

頭の奥で警告音が響いている。今はまさに緊急事態だと。

「いや、すみません。吉岡さんは今日の飲み会来るのかなと思って」

「え」

「ほら、出欠表に記載がなかったから。僕幹事なので聞いておかないといけなくて」

「ああ、あ、すみません」


 バタついた手がカップに当たり、ガチャンと大きな音をたてた。

大丈夫ですか、と苦い笑みを浮かべる吉岡と目が合って、いてもたってもいられなくなる。

大がかりな案件が終わり正念場を乗り越えたので、簡単な打ち上げをしようということになりました、とメールが来ていたのは確か二週間前だ。

皆が別シートに出欠の意思表示をしていくなか、女はいつものように無記名でいた。

そうしても誰も何も言わないし、今までだってそれで当たり前のように欠席で通ってきた。


「せっかくだし参加しましょうよ」

 羽本が身を乗り出して女に笑いかけた。

「僕、吉岡さんのこともっと知りたいです。あ、もちろん一緒に働く人とはできるだけ仲良くなりたいっていう僕の信条から言っているだけですよ。決して下心があるからとかではなく……なんかすいません」


 困ったように目じりを下げて、にこやかに謝る。

柔らかく上げた唇が、ぽってりと水分を帯び、なんとも艶やかだった。

あんなのを好きになる女も意味わかんない。と昨日茉莉が言ったのを思い出した。

実際、お前もこうやって笑いかけられてみろ、とガツンと言いたい気持ちで、無意識に行きます、と頷いていた。

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