第五・六話

10月の川の水は肌を刺す冷たさだが、美しく澄んでいる。

琥珀と怜、2人は手を繋いだまま深くまで落ちていった。琥珀は水の中でも美しい怜に見惚れつつ、何だか夢の中にいるような心地になってきて、静かに瞳を閉じた。

怜も川に落ちてしまったというのに焦ることなくただ水に浮かんでいたが、琥珀の意識がなくなったことに気づくと我に返り、必死で繋いだ手を引っ張り琥珀を運びながら浅瀬まで泳いでいった。




川辺の砂利の上に琥珀を寝かせ、肩を叩いたが琥珀の反応はない。

「まずい……」

ここから自分の家まではかなり距離があるため、父親に診せに行くうちに琥珀が死んでしまうかもしれない。

怜は琥珀の顔をじっと見た。


「珀さん………、失礼しますね。」

意を決した表情でそう言って、怜は髪を耳にかけた。

そして自らの小さな口で琥珀の口を覆い、できる限り必死に息を吹きかけた。


「ハッ…ゲホッ…!!」

「…ッ!!珀さんッ!気が付きましたか?!」

「はッ…あ…あぁ…。怜さん、俺はどうなって…」

「もう大丈夫です、助かりましたよ、」

「そう…か。ッ…!」

「ちょっ…まだ起き上がらないでくださいッ!」

琥珀はすぐ起き上がろうとしたが、思ったより身体がだるく、怜に言われるまま再び寝転がった。

怜を見ると、自分と同じように全身水に濡れていた。息は上がっており、頬も赤くなっている。


「怜さんが助けてくれたの?ありがとう…。」

すると怜は微笑んだが、一瞬で申し訳なさそうな表情に戻ってしまった。

「……礼を言われる立場ではありません。私が珀さんを命の危険にさらしてしまったのですから…。本当に申し訳ありません…。私はどうすれば…」

そう怜は言うが、自分が勝手に怜を女の子だと勘違いして、勝手に驚いて川に落ちていったのだ。怜は何も悪くない。

「いや、怜さんは何も悪くないでしょ?俺が馬鹿だったんだッ!それより…俺の方こそごめん。女の子に間違えられてたなんて、気分悪いよね。しかも、友達の前で俺あんなことしちゃったし…」

あんなことと言われて、怜は一瞬ポカンとしたが、すぐに思い出し苦笑いをみせた。

「いいんです。自分が男らしくないことは分かっているので。」

そんな自虐を言っているが、やはり表情は暗く、余程琥珀が死にかけたことを気にしているのだろう。医者として人の命を救いたいという志を持っているのだから、琥珀のように軽く受け止められないのかもしれない。

琥珀はうーん、と悩んだ。自分が失礼なことをした挙句、これでは真面目な怜が思い悩みかねない。何とか話題を変えなければ。


…そうだ!

琥珀が思いついたことは至ってシンプルだった。

「怜さんッ!俺と友達になってよ!!」




再び沈黙が訪れた。

小鳥たちの囀りは賑やかで、まるで琥珀たち2人を笑っているかのようだ。

お互いに相手に対して申し訳ないと思っているなら、いっそのことそんなことを忘れてしまうぐらい親密になってしまえばいい。人たらしの琥珀らしい考え方である。

しかし、目の前の怜を見ると、目をまん丸くしてポカンとしている。

「…え?…怜さん、俺、そんな変なこと言った?」

「……いえ、ただ友達って具体的に何をするんですか?」

「…は。」

琥珀は開いた口が塞がらなかった。流石にこの歳まで生きてきて友達の1人や2人もいなかったなんてことはないだろう。

「……怜さん、こんなこと聞くのもアレだけど、友達…できたことないの?」

怜は頭に?を浮かべたまま頭を傾けてこちらを見ている。その顔があまりにも可愛いらしくて、つい男であることを忘れてしまう。

「同じ歳ぐらいの子は何人か周りにいますよ。ですが、友達…?などと名前のつくような関係性ではないと思います。何度かお話ししようと思ったことはありますが、なぜかタイミングが合わなくて…。だから、そうですね…できたことはないですね。」

怜は特に落ち込む様子もなく淡々と話しているが、聞いている琥珀の方が胸が痛んできた。

なんせ琥珀は1人でいることが大の苦手なこともあり、すぐに自分から話しかけて人の輪を広げていくタイプだからだ。

おそらく怜は超がつくほど真面目で優秀、そしてこの美しさのせいで大人からの評判はとても良いものの、同世代からは嫉妬の対象になっているのだろう。そして、本人がそれについて何も気付いていないため、この年頃の輩は余計腹が立つのだろう。

王宮で育ち、世間知らずで育ったはずの琥珀の方がよほど俗世を知っているようだ。

怜はまるで純粋培養された一輪の花のようで、穢れは一切感じられず、静かに佇んでいる。


「じゃあさ、俺が怜の初めての友達になるっ!俺はこれから怜って呼ぶから、怜は俺のこと珀って呼んで?」

怜は状況をあまり理解していないような様子だったが、良いことを言われているのは分かったようで、

「はいっ!珀!」

と言って笑ってくれた。

先ほどまではどんより模様だった怜だが、琥珀の思いもよらぬ提案に完全に思考を持っていかれ、すっかり晴れ模様になったようだった。





「…しかし、まさか怜が男だったとはなぁ…。なんでそんなことに気付かなかったんだ俺は…?確かによく考えたら俺と身長だってそんな変わらないし、声だってちゃんと男だったよなあ…」

琥珀は広すぎる浴槽に浸かりながら、ブツブツと今日の自分の可笑しすぎる勘違いについて考えていた。

王家の人間には一人一人に殿が与えられており、当然浴室も自分専用だ。浴室の天井は高く、天井から浴槽を隠すように美しい白い布が垂れている。それらも相まって、琥珀の性分を知らないものから見たら、その入浴姿はまるで殿上人のようで目を当てるのも憚るぐらいの美しさだ。

王家の各殿は王宮全体としての清廉さを出すために王が住う本殿と合わせて白を基調としているが、それさえ合わせてあれば、後は各人の趣向に沿ってよいこととされている。風流な琥珀が、当然手を加えずにはいられず、庭園に四季それぞれに盛りを迎える草花を植えては夜に蝋燭の灯火でそれらを鑑賞している。また、気が向いた時には花びらを摘んで、今日のように浴槽に浮かべることもある。

質素倹約を是とする者から見れば何とも忙しない琥珀の殿であるが、女性からは密かに人気が高いのだ。


あれから琥珀は怜と別れ、全身びしょ濡れだったため珍しく明るいうちに王宮に戻ったのだが、王子が目も当てられぬ悲惨な姿で帰ってきたことに魂が抜けかけた望月は隠すように琥珀を殿まで連れて行き、有無を言わせぬまま浴室に放り投げた。

酷い扱いだと琥珀は思ったが、よくよく見れば得体の知れない川の藻?なんかもついていて、あまりにも汚かった。

「怜は何を楽しいと思うんだろう?"勉強"なんて言われたら俺はとてもじゃないけど付き合えないよなー…。かと言って、怜は多分俺が好きな遊びなんて、存在すら知らないぞ…」

琥珀がつらつら独り言を言っていると、新しい服を持って入ってきた望月がコホンと言って何か言いたげである。

「なんだ、望月か。言いたいことがあるなら言ってくれ。今は気分が良いから聞くだけならしてやる」

「琥珀様。昨晩私が告げたことは本当に…何一つ貴方様の心に響いていなかったのですね…。いえ、もう良いんです、良いんですけどね…。」

「良いって言うんならもう言うなッ!今日は気分が良いんだ、害さないでくれ!」

「それはそうと、なぜ今日はあんな姿でお帰りになられたのです?滝にでも打たれに行かれたのですか?」

「いやッ…!そうじゃないんだ!聞いてくれよ、実はさッ!…」

今日の出来事を話そうと思ったが、やめた。

男を女の子と間違えてナンパし、怒らせた挙句川に落ちたなど、望月が失神してしまいかねない。それに、新しく友人ができたなどと言ったところで、民と友人になるなど自覚がないとでも言われそうだ。

「…なんです?琥珀様。」

「いや、何でもない」

琥珀は言葉を飲み込み、もどかしい気持ちを抑えるため頭のてっぺんまで湯に浸かった。




「私の愛息子の様子はどうでした?王様。」

本殿。琥珀の殿とは違い、殺風景なこの場所は他でもない猛龍王の住まいである。猛龍王は王家の人間にも関わらず武官のような気質であるため、自らの殿を美しく煌びやかにしようという気はさらさらなく、王に即位し居住し始めてから、その外観や内装に一度も目を向けたことはない。

猛龍王は目の前の机を拳で勢いよく叩いた。その衝撃で机がミシミシ…と悲痛な音を立てた。

「どうもこうもないッ!!なんなんだあの阿呆は!王家の自覚がまるでないッ!講義に出ないだけならまだしも、民に混ざってアホみたいに遊んでいるだと!?どれだけ禁忌を犯せば気が済むッ!?」

あまりにも大きな声で、その勢いはまるで雷だ。

まあまあ落ち着いて、と言わんばかりに妃の寧々は猛龍王の背後に周り、不似合いな政務で凝り固まった肩を揉み始めた。

「まあまあ、あの子の性分は今に始まった事ではないでしょう?なぜ、今になってそんなに焦っておられるのですか?」

寧々は猛龍王と連れ添って長く、また彼女は若くして嫁いだこともあり、相手が誰であれ物怖じしないところがある。そのため、史官たちが決して口に出せないことでもすらすらと言えてしまうのだ。

すると猛龍王は周りに誰もいないことを確認した上で、彼女の膝に頭をのせ、犬のように戯れつきながら甘えた声で言った。

「なぜって…俺はもう五十を超えた…。歴代を見ても、もう譲位して隠居する歳になった。…だが、青藍の病状がやはりあまり良くないんだ。なんとか命を繋げることはできても王として政務ができるほどには到底ならないと主治医が言っていた。俺の子とは思えないほど素晴らしい王子なのに、俺はあの子に健康な体を与えることができなかった…。」

「……だから、琥珀に一縷の望みを託したってことかしら?」

寧々は猛龍の頭を撫でながら静かにそう言った。青藍の完治が難しいという事実は、母親にとっては辛い事実である。

すると、猛龍は鎮めた怒りを思い出し、獅子のような顔になって起き上がった。

「そうだッ!俺だって無理だと分かっていたさッ!!だが、青藍があんなに病に苦しんでいて、俺もこんなに次代について頭を悩ましているっていうのに、いつまで経ってもアイツだけ呑気にしやがって!!心底腹が立つッ!!アイツはたった一人の兄の心配さえしないのかッ!!!!」

今度は机が割れそうになったため、マズイと思った寧々は無理やり膝に寝かせ、額に口付けをした。今月だけで三回机を買い替えているのだ。

「ごめんなさいね、あなた。あの子は私によく似ていて、随分と幼いの。でもね、青藍のことを心配していないわけではないの。主治医から面会許可が下りた日はいつも顔を見に行っているのよ。」

寧々からの口付けで気分が良くなった猛龍は琥珀について苛立ちは残るものの、なんとか怒りを抑える気になったようだ。寧々の膝に頭を擦り付け再び甘え始めた。

「俺は早くお前と隠居したい。毎日お前だけを見つめて暮らしたいんだ…!」

「うふふ、気持ちは十分伝わっていますから。琥珀には、私からも話をしておきますからね。」

「寧々、今宵は一緒に寝てくれ。寝台で待ってる…」

「分かりましたよ、ワンちゃん…うふふ」


この国の主人・猛龍王は幼い頃から武術に傾倒し、その腕前はどの武官よりも目を見張るほど覇気がある。その代わり、どうもお頭が弱いようで、勉学には励むものの、そちらの方は正直目が当てられないほどだったとか。琥珀のようにやらないわけではないため、師たちは余計に頭を抱えた。

また、舞踊や詩歌等にも全く興味がなく、女にも興味を示さないものだから、世話役も妃を探すのに随分と苦労したとかしなかったとか。だが、このように寧々には人が変わったように甘えることができ、一目見た時から彼女だけは特別だったらしい。

そんな妃の寧々はこの国の権力者であるしん氏の一人娘であり、彼女が猛龍の妃になれたのは父の力ゆえではあるものの、猛龍に好かれるだけの可愛らしい容姿や、無邪気さは寧々だけが持つ長所であり、実際彼女のお陰で猛龍は若かりし頃より随分と丸くなったとのことだ。彼女は自分によく似た琥珀をとても可愛く思っているため、何とか猛龍にも可愛がって欲しいのだが、琥珀の持ち味である自由奔放さが鼻につくようならば、難しいとも思っている。


猛龍は隠れて毎日寧々に甘えている気でいるが、当然王に側仕えがついていないわけがなく、今日も部屋の外には多くの武官や女官が備えており、複雑な表情を浮かべる者、また笑いを何とか耐えている者様々であった。

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紫苑 花信風描 @hana_draw87

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