6-06


  *


 それから二人は必死で濁流を逃れようとしていたものの、未だに危機を脱せずにいた。浮き沈みを繰り返しながら流され続けていると不意に、きゅう、と聞き覚えのある泣き声が耳に入る。


 はっとして二人が振り返ると、安田さんが居た。こっちだとでも言うように木の上で身を伸ばし、二人に呼び掛けている。カナメが必死でそちらに向かって水を蹴ると、──足の裏が何かに触れた。


「これは、……助かった!」


 それは田の脇に立てられた電柱であった。背の高いカナメだからこそ偶然届いたのであろう。足裏に力を籠めて電柱を強く蹴ると、ざばりと身体が水面より大きく躍り出た。体勢を立て直し余裕を得たカナメは夢中で水を掻き、安田さんの居る方へと進んで行く。


 やっと木の枝を掴み水中から身を引き上げると、二人ははあ、と大きく息をついた。


「ありがとう、安田さん。命拾いしました」


 安田さんは何度も頷くと、二人を導くように歩き出す。カナメはシズクを支えながら後を追い、そしてようやく東の山の頂上へと辿り着いた。


 もう随分と雨は緩くなっていた。泥を洗い流すかのように透明なつぶてが降りしきる。二人は絶句したまま、その光景を眺めた。


 瑞池の全てが、水の底へと沈んでいた。


 まるで最初から何も無かったかのように、ただそこには水の溜まりがあった。あの水量と勢いでは他の地区にも被害が出かねないと危惧していたが、不思議な事に水は瑞池の外周をぐるり回る道より内側、あの四方を護る祠に囲われた四角の中だけに存在していた。


 すっかりと凪いだ水面に雨が波紋を作る。雷はもうなりを潜め、怒りを収めたらしい水神は姿を消していた。


「ミズチ様は、封印されていた筈なんですよね、カナメ様。何故姿を現したのでしょう」


「恐らくは、あのイモリを祓った事で、イモリが水神から勝手に拝借していた水を操る力が水神に還ったのでしょう。その余剰な力と、それからそのような不遜な事をされていたという怒りが、水神を呼び覚ましたのではないですかね」


「それにしても、ひいお祖母様とアガナ様の二人掛かりの封印だったのでしょう?」


「前回封印が施されたのは十九年前です。強い封印も時を経る毎に少しずつ弱まったりもするのでは? それにほら、来年はもうすぐ目の前ですよ」


 二人は山道の真ん中に座り込み、眼下の光景を見ながらぽつりぽつりと言葉を交わした。余りにも人知を超えた出来事に、呆然とするしか無かったのだ。


「これから、どうされますか、カナメ様」


「取り敢えずは山を降りて『子供寮』に集落の現状を知らせ、それから電話を借りて通報すべきでしょうね。その後は……」


「その後は?」


「しばらく御師様の所にでも世話になりましょうか。水神や呪い具、霊達の怨念や死んだ人達……、それらを鎮めないといけませんし。やる事は山積みですね」


 はは、と力無く笑うカナメに、シズクもふふと笑う。そうしていると、いつの間にか姿が見えなかった安田さんが再び二人の前に現れた。


「おや、安田さん。その、口に咥えているのは……?」


 安田さんは二人の前にその、運んで来た物を下ろした。ぽて、と地面に置かれたのは、小さな小さな狸であった。


「これは、赤ちゃん狸さんですか? まあ、何て可愛らしい!」


 シズクがそっと掬い上げると、子狸はくりくりとした真ん丸な目でシズクを見上げ、きゅ、と愛らしい泣き声を上げた。


「この子は……もしかして、さっきの水害に巻き込まれたんですか? 親がいなくなったとか、そういう事でしょうか」


 カナメが問うと、安田さんはこくりと深く頷いた。どうやら二人に育てて欲しい、とそういう事のようだ。


「この子狸さんを飼うのは構わないのですけれど、その……安田さんも、一緒に来ませんか? 瑞池は無くなってしまった訳ですし……」


「そうですよ、自分達と来ればいい。この地は離れる事になってしまうけれど、きっと楽しいと思いますよ」


 二人に言われて安田さんは、カナメとシズクの顔を交互に見比べる。


 それから、おもむろに──首を、横に振った。


 ずっと縦だけに頭を下げる所しか見せて来なかった安田さんの初めての行動に、二人は驚きそしてそれ以上は何も言わなかった。


「分かりました。では、お別れですね。……今迄ありがとうございました、安田さん。随分とお世話になりました」


 カナメの感謝の言葉にぺこり頭を下げ、安田さんはきゅうと泣いた。それからシズクが潤んだ瞳で安田さんを抱き締め、もふもふと撫で回す。


「ずっと見守ってくれてたの、知ってました。ありがとう、ございます」


 その囁きに頷くと、安田さんはすとんと地面に降り立った。そして二人が見詰める中、尻尾を揺らして林の中へと消えてゆく。


 いつの間にか雨はもう上がっていた。吹き抜ける風が水面を揺らした。


 虚空に浮かぶ蒼白い月が、水の中、静かに揺れていた。


  *


「大変じゃったなあ。まあしかし、……あの化け狸、まだ生きとったんか」


 カナメ達の話を一通り聞いたアミダは茶を啜りニヤリと笑う。


 カナメとシズクの二人は瑞池に関する事後処理の為に、金剛寺にしばらく厄介になる事になった。落ち着いた二人があの夜の出来事について詳しく語った際、アミダは安田さんの事を『化け狸』と称したのだ。


「ちょっと待って下さい御師様。安田さんは確かに空気を読め過ぎますし完全に人語を理解しているふしはありますが、でもどう見ても普通の狸でしたよ?」


「だからお前は甘いと言うとろうが。大体、狸の寿命がどれだけ長いと思うとるんだ? 野生の狸は長く生きてもせいぜい十年余りが関の山だ。しかしあいつはもう三十は優に超えとる筈じゃって」


「え、じ、自分より歳上……!?」


 反論しようにも明かされた新たな事実に衝撃を受け、カナメは絶句する。そんな二人の遣り取りをくすくすと笑いながら、シズクは子狸とたわむれる。


 時間は穏やかに過ぎてゆく。時折シズクの瞳に映る寂しさも、いずれ時が癒してくれる筈だ。


 瑞池という集落は無くなったものの、その跡地は水を湛えたまま静かに佇んでいる。その内に罪も、罰も、呪いも、穢れも、全てを孕んだまま、水はたゆたう。


 澄み渡った空は水のように蒼く、どこまでも遠く。大きな鴉が一羽、カアと一声鳴いて翼を羽ばたかせた。


 もう慟哭は、響く事は無い。


  *

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る