6-05
*
不意に、虚空から羽ばたきが聴こえた。それはばさりと闇を払い、カナメの許へ舞い降りる。
黒く燃えるそれは──三足の鴉。内に秘めた熱をじわり朱く光らせ、それでもなお黒くあるもの。太陽に棲み空を渡り、そして──神を導くもの。
鴉は一瞬でその身を灼ける焔の玉へと変化させる。周囲の物が歪んで見える程の陽炎を産む炎熱の玉を、カナメは銃身へと滑り込ませた。同時に気を籠めると銃表面の術式が輝きを宿す。
カナメは銃を構え狙いを付ける。イモリは既に怯え、混乱し、生贄の存在すら忘れ後ずさりを始めていた。
「……逃がしはしません。さあ、祈る暇すら無い浄化を捧げます」
手早く機構が捜査され、金属音が鳴り響く。それは審判の鐘よりなお鈍く、鞘走りよりもなお鋭く。最後に、──引き絞られた銃爪が、ガチリ音を立て、回る鋼の歯車が火花を巻き起こした。
ホイールロック式ライフルの銃口が文字通り、火を噴いた。
一直線に迸る焔の玉が『ミズチ様』の身体に吸い込まれてゆく。そして数瞬の静寂の後、──爆発が、夜を灼いた。
太陽が産まれたかの如き眩い光と熱が山頂を覆い、闇を震わせる。雲すら焼き払い、光の粒子が空へと散ってゆく。閃光が見た者の目を眩ませ、そして、幻だったかのように、後には何も残らなかった。
「……はあ。少し、やり過ぎましたかね」
光が収まると同時、翻りはためいていたカナメのコートの裾も落ち着きを取り戻す。銃身の熱くなった黄金のライフルを片手に、カナメがぐるり周囲を見回した。そこには何も残ってはいなかった。鳥居も、かがり火も、生贄の身体も、そして勿論『ミズチ様』も。
「カナメ様! カナメ様、ご無事で!」
シズクが山道を走り駆け寄って来る。己れの胸へと飛び込んで来たシズクを抱き留め、カナメは目を細め笑んだ。
「助かりました。しかし何故、コートとステッキを持って来て下さったのです?」
「波木の光雄さんが、カナメ様が『ミズチ様』と対峙するつもりだと教えて下すったのです。それで慌てて駆け付けようとした時に、安田さんがこれを持って行けと言わんばかりに咥えて引き摺って来て……」
「成る程それで……光雄さんと安田さんには感謝しないとですね」
シズクを抱きかかえたままカナメは空を見上げる。霧雨はもうすっかり止んでいた。切れ切れになった雲の合間から、蒼みを帯びた月と煌めく星々が覗いている。
これで瑞池は変わる事が出来る筈だ、変わってゆく筈だ。カナメはそう息をつく。しかし──突然、湖の表面が激しく波打ち始めた。
地鳴りの如き振動が地面を揺るがす。瘴気とは違った力強い気配が膨れ上がる。
「何が、起きて──」
「カ、カナメ様、あれは、あれは──」
ザバアアアアア……ッ! 盛り上がった湖面から姿を現したのは、透き通るが如き蒼白の鱗を煌めかせた──。
「り、龍!? 水神──本来の『ミズチ様』……!」
飛沫が舞う。波が踊る。龍は激しく咆哮を上げる。雷鳴が轟き、稲光が夜を割る。
──堂々たる姿の水龍が、朱く怒りに染まった瞳で二人を睨み付けていた。
*
龍の咆哮が轟くと同時、黒雲が夜空を覆い土砂降りの雨が降り始める。その凄まじさは筆舌に尽くし難く、前すら見えぬどころか立ってすらいられない。息すら危うい豪雨の中、湖の水位は見る見る上がり溢れ始める。轟々と音を立て濁流が山を駆け下りる。
カナメは抱きかかえるようにしてシズクをコートで包み、シズクも股離れまいとカナメの服を握り締める。押し流されまいとカナメは木の枝に掴まりながらより高い方へと移動を試みる。
集落を見ると川が溢れ、どころか山からの濁流が土砂を伴い滑り流れ落ちてゆく。更に雲が山だけでなく集落の上にまで広がり、痛い程の雨を叩き付ける。瑞池全体が大きな池になったかのように水位が上昇してゆく。
「ああ、ああ、あれでは皆、水の中に沈んでしまいます! 皆が溺れてしまいます……!」
シズクの悲痛な叫びが肌を震わせる。住民が慌てて外に飛び出し、或いは屋根の上へとよじ登る様子が見えた。車を持っている者は山へ逃れようとでもしているのか、猛烈な勢いで走り始める。
しかし津波のように押し寄せた濁流に皆、呆気なく飲まれてゆく。そしてカナメの足許も不意に崩れ、二人は雨と共に山肌を流れ落ちる。
「っ、く、しっかり、掴まっていて下さい、シズクさん……!」
カナメは強く強く、自らの身体で護るようにシズクを腕の中に抱き込んだ。シズクもぎゅうと力を籠めてカナメにしがみ付く。水に飲まれ息を止めながら、それでも二人は決して互いを離さない。
ようやく水面に顔を出して周囲を見回したカナメは愕然とした。──そこはまさに、地獄絵図だった。
逃れようと必死で泳ぐ男達の身体に首の無い女が絡み付き、水中へと引き摺り込んでゆく。またある者は首のだらりと垂れた女に羽交い締めにされて流されてゆく。別の男は腹のぱっくりと開いた女の臓物にまみれながら沈み、更に別の者は腕の無い女にのし掛かられて見えなくなった。
女性達には赤子や幼子が纏わり付く。腕や脚の無い、頭の無い、片眼の無い、首の無い、脚の多い、腹の異様に膨らんだ、頭が二つある、表情が虚ろな──そのような子供達が女達に抱き付いて、甘えるようにおぶさり水の中へと突き落とす。
「こんな、……惨い」
シズクが呟いた言葉はどちらに対してのものなのか、カナメには分からなかった。そして豪雨の中で微かに呼ぶ声を捉える。
「……っ、シ、ズク……シズ、」
泥水の中に浮き沈みしながらシズクを呼ぶのは、シュウコを抱きかかえたシグレであった。シグレは声を張り上げ手を伸ばし、必死でシズクへと呼び掛けている。
「あにさま! あにさま! かあさまも!!」
シズクは手を伸ばそうとするが、カナメはそれを止めさせた。抗議の目を向けるシズクにカナメは首を振る。
「今の状況では助けられません。今だって自分自身の身すら危ういのです。彼らを助けようとすれば自分もシズクさんも一緒に沈んでしまいます」
「そんな……!」
絶望の悲鳴を上げるシズクに、泥を飲み全身を汚しながらシグレが近付く。伸ばす手はもう少しで届きそうで、シグレはシズクの名を叫びながら笑みを浮かべる。
「シズク、シズク! 僕を見捨てるのかい!? 兄さんを見捨てないでおくれよ! ああ、ああ、僕にはシズクが必要なんだ! シズクが居ればまた瑞池は再建出来る、素晴らしいお前の能力があればもっともっと素晴らしい呪い具を作る事が出来る!」
「あ、に……さま、何を、言って、」
「お前の能力が必要なんだ! 呪い具を一杯作って金を貯めて呪いを広めて、そして大願を成就するんだ! なあ素晴らしいだろう!? お前だって嬉しいだろう!? 人間未満の人形みたいなお前がこの兄さんの役に立てるんだ! 嬉しいだろう!?」
シズクは言葉を失った。濁流に揉まれながら、呆然とシグレを見返した。何を言われているのか理解が出来なかった。そして、シズクの腕をシグレが捕らえた。
「さあ一緒に行こうシズク。母さんとシズクと僕の三人で暮らすんだ。あはは、は、あへへへふふうふあはははは」
シグレの瞳孔は開き切り、もう誰も映してはいなかった。大きく開けられた口の中には幾つもの幾つもの歪つな顔が覗く。シズクの腕を掴む力は万力の如く強く、振り払えずにシズクは恐怖の叫びを上げる。
「嫌、嫌! 離してあにさま! いやあにさまじゃない、あなたなんかあにさまじゃない!! あにさまを返して!」
シズクの目からぼろぼろと涙が零れ、泥水に濡れた顔を洗い流す。狂ったシグレは尚もシズクを引き寄せようと力を籠め──不意に、誰かがその手を掴んだ。
「もう、……やめて、シグレ。やめましょう」
それはシュウコだった。奇蹟、なのだろうか。それはシズクが初めて聞く、母の凜とした正気の声。呆然とシュウコを見るシグレの手がシズクから離れる。シュウコはシグレを抱き締めると、優しく囁いた。
「ごめんなさいね、シグレ。今迄、一人で辛かったのでしょう。さあ、これからは母さんが一緒よ。地獄の底まで、母さんが一緒に行ってあげる……」
「かあ、さん……」
シグレの目から涙が溢れた。シュウコの瞳も濡れていた。泥にまみれたシュウコの顔は、しかしとても美しく気高い母の顔をしていた。
「生きなさい、シズク。あなたには生きる権利がある。あなたはこれから、自分の思うままに生きるのよ」
「かあさま! ああ、かあさま!!」
「さあ、行きなさい!」
シュウコとシグレを濁流の波が掠う。伸ばしたシズクの手の甲を激しく雨粒が叩く。何も掴めずに、手に入れた瞬間失われた声を、ぬくもりを、豪雨が押し流す。
「……生きましょう、シズクさん」
シズクはカナメの肩口に顔を埋め、小さく頷いたのだった。
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