5-09


  *


 結局、カナメは広間へは戻らなかった。どれぐらい時間が経った頃だったか定かでは無いが、清水が葬儀の終わりを伝えに来た。後はこちらで上手くやっておくので、と言われカナメは素直に全てを任せた。


 沢田からはシズクがそのまま自室で休む旨を告げられ、結局カナメは朝以降シズクに会わぬままに夜を迎えた。清水が帰る前に沸かしてくれていた風呂に安田さんと入り、書庫で古い帳面を捲りながら時が過ぎるのを待った。


 そして十一時を幾らか過ぎた頃、カナメは身支度を整えて裏口から静かに静宮邸を抜け出したのであった。


  *


 いつの間にか雨は霧雨へと変わっていた。水溜まりやぬかるみに足を取られないよう注意しながら、カナメは夜の集落を北の山へと急ぐ。皆眠りに就いているのだろう、家々には明かりも無く集落は驚く程に静かだった。


 木々に紛れるように身を潜めつつ慎重に山道を辿る。柿畑にあった作業小屋が近付いた頃、小屋に隠れるように立っている人影が見えた。少し様子を窺いその人物が波木光雄である事を確認し、カナメは近付き小さく声を掛ける。


「こんばんは、光雄さん。自分です、カナメです」


「ああ、来てくれたんか」


 少し緊張した面持ちの光雄が、姿を見せたカナメを手招きする。音を立てないよう手探りで慎重に扉を開き、光雄は小屋の中へとカナメを招き入れた。


「一体此処に何があるんです?」


 光雄が黙って懐中電灯の明かりを灯す。以前見た時には山の斜面に凭れ掛かるように小屋が建てられているという印象を受けたが、それは間違いであった。ぼんやりと照らされた小屋の奥の壁は剥き出しの岩で、どうやらこの小屋は崖のような場所を覆うように作られたものらしい。


 しかしカナメが狭い小屋の中を見渡すも、あの日男達が言っていたように農機や農薬らしき袋、容器に農具などが棚や床に置かれているだけだ。不思議がるカナメを余所に、光雄は奥の壁に歩み寄ると、そこに立て掛けられていた大きな板に手を伸ばした。


 畳を一回り小さくした程の板には閂じみた簡素な仕掛けが付いている。光雄がそれを捜査すると、板はぎいと小さく軋みを上げる。──それはただの板では無く、扉であったようだ。開いた向こうには岩盤にぽっかりと開いた穴が見えた。


「こっちだ。あんたに見せたかったのは……これだよ」


 光雄が闇深い穴の中を懐中電灯で照らし出す。そこは洞穴と言う程の深さも無い、およそ百五十センチメートル四方程の空間だった。高さも奥行きや幅と同じぐらいで、入口だけが窄まっている。穴というよりはむしろ自然に出来た窪みと言った方が近いだろうか。


 そして穴からは腐敗臭と饐えた悪臭が微かに漂って来る。覗き込むと、床には汚らしく変色した敷き布団が広げられていた。そこに存在する物を目にし、カナメが息を飲む。


 ──女が一人、横たえられていた。


 その肌は白く、くったりと転がる姿はまるで死んでいるかのように見える。片脚は岩盤に打ち付けられた杭に太い鎖で繋がれ、誰かに監禁されているであろう事は一目瞭然だ。


 そして奇妙なのは、頭にすっぽりと白い袋が被せられていた事だった。布で出来ているらしきそれは取れないよう首の辺りで紐で縛られ、涎や鼻水だろうか、下の辺りは茶色く染みが出来ていた。


「これは……一体、誰なんです。それに誰がこんな事を」


 女を見下ろし呆然と呟くカナメに、光雄は溜息をついて口を開く。


「この人は水間の明恵さんや。失踪したっていう事になっとったやろう、けんど本当は此処に閉じ込められとるんや、ずっと」


「ずっと……、誰が、世話をしているんです? 生かしておくならば、少なくとも食事や排泄の世話が必要でしょう」


「世話は要らんのや。この人は生きとるように見えるけんど、ほんまは死んどるんや。死んどるから食べもんも要らんし糞もせえへん。でも生きとるみたいに動くんだ」


「そんな。死んでいるのに、生きている……?」


 カナメはその事を確かめようと、女に近付き手を伸ばした。触れた肌は些か冷たいものの、氷のように、などという程では無い。飽くまでも人肌と思しき範疇だ。


 そして女に近寄った事で、カナメは更に重大な事に気付いた。何度も凝視し、そして感情の整理が追い付かずに小さく唸った。


 ──女には、腕が無かった。


 女の腕は肩関節の辺りで折り取られていた。無理にナタか何かで関節を壊し腕を斬り落としたのであろう、肩の辺りの肉はぐちゃぐちゃに潰れ引き千切られ、繊維や皮膚が汚らしく垂れ下がっている。


 その断面はまだ新しいもののようにカナメには見えた。しかし血が滲んだり凝固している様子は無い。例えるなら、綺麗に血抜きした動物を解体する際のような──。そこまで考え、カナメは婚礼の宴の事を思い出す。


「まさか、斬り落とされた腕は、その肉は」


 愕然とするカナメの背を、労るように光雄がさすった。


「ああ、達夫があんたに食べさせた肉……、あれはきっと、この明恵さんの腕や。あんただけとちゃう、まだ瑞池に来て日が浅い『肉』を食べてなかったもんにも振る舞われた。俺らも皆、今迄に食べとるんや。儀式……みたいなもんちゃうんかな」


「何故、こんな……」


「詳しい事は分からんし、知っとっても喋れんけんな。でも見せたら分かる事もあると思うて、あんたに報せときたあて、此処に呼んだんや。弔いがあった今日なら多分、誰も来んと思うてな」


 光雄の言葉にカナメは女を見下ろし、強く奥歯を噛んだ。握った拳は微かに震えていた。


「世話が必要無いのに、何故、此処に人が来ると……?」


「使うんや。自由に使うてええって言われとる。……ほら、瑞池には嫁のおらんようになった男が多いやろ。その、溜まったもんの捌け口にな」


 吐き気がした。生者か死人かも曖昧な女を喜んで抱く男達に、人肉を食わせる慣習に、嫁いで来た娘達の命を弄ぶ集落に。


「道子は、きっとたまたまこれを見たんやと思う。男衆の誰かが夜に山に行くのを偶然目にして、それで此処に来て知ってしもうたんやと。好奇心の強いひとやったから……。でも、俺は道子がおらんようになってほっとしとる。今は、道子が逃げてくれて良かったと思うとる」


 ぽつぽつと落ちる光雄の言葉を、カナメはただ黙って聞いていた。光雄はきっと、道子を愛していたのだろう。だから道子がいずれこうなる事に耐えられなかったのかも知れない。もしかしたら、道子が逃げるように無意識に仕向けていた可能性すら有り得るだろう。


 しかしだからと言って、──今迄に犯した罪が消える事は無い。それでもカナメは強く弱いこの男を、好ましく、そして哀れに思った。きっと光雄はこのまま瑞池で生きて行くのだろう、心に痛みと罪悪感を抱えたまま。


 目の前の女が身じろぎをする。女には意識があるのだろうか、自我があるのだろうか。感情は、苦痛は、あるのだろうか。


「でももう、次の日曜で終わりやなあ。ようやく死なせてやれる」


 どこか諦めたような口調に、カナメは光雄を振り返る。


「やはり、この人は祭の生贄に使われるのですね?」


「そう、晴れ祈願の照る照る坊主になって貰うんや。それでミズチ様に食べられて、ようやく本当に死ねるんや。……ミズチ様は生き肝が好きやけん、生贄が生かされとるんはそういう事なんやって聞いとるわ」


 カナメは光雄の語る内容に強い違和感を覚え、目を見開いた。


「ちょっと待って下さい。ミズチ様って……、ミズチ様はあの西の山の湖に封印されている龍神だと聞いていました。二十年に一度、静宮の巫女と金剛寺の住職が鎮めています、贄などは必要無かった筈……!」


「え、そうなんか。でも毎年やっとる祭で生贄捧げとるんも、ミズチ様って……」


 カナメの剣幕に驚いた光雄が目を泳がせる。その態度に少し冷静さを取り戻し、カナメは大きく息をついた。


「どうやらそれは別の存在のようですね。いつの間にか混ざってしまったか、もしくは故意に混同させたのか……。ちなみに、その皆が言う方の『ミズチ様』というのはどのような存在なのか、教えて頂けませんか?」


「ミズチ様は瑞池に雨を、あの霧雨を降らせとる存在なんや。だからご機嫌を取って出来るだけ雨を減らして貰おうって祭なんや。こんだけで瑞池にとって祭がどんだけ大事か分かるやろ」


「それは……成る程。確かに農業が主要産業の瑞池にとって天候は死活問題ですね。祭が重要というのも頷けます。そう言えば光雄さんは、その『ミズチ様』がどのような姿の存在なのかはご存じで?」


 すると光雄は少し俯き、躊躇するように目を泳がせた。それでもカナメが目を逸らさないでいると、観念したように口を開く。


「一度だけ……たまたま、祭の後で忘れもんして鳥居の所に取りに戻ったら、ミズチ様が生贄から臓物を引き摺り出して喰っとるのに遭遇したんや。俺は余りの事に腰抜かしてしもうて、這々の体で山を降りて家に戻った。けどあの姿はもうずっと忘れる事が出来ん」


「それは、……どのような」


 カナメが問うと、僅かな間唇を引き結んでから、光雄は震える声で、絞り出すように言葉を吐いた。


「ごっついでっかあて、黒うて、ぬめぬめして、尻尾がこう長あて、腹が赤あて……所々から人の腕とか顔とかが生えとるんや。けんどな、それが何かって一言で言うなら、」


 一拍置いてから光雄は言い切った。


「──イモリやった。あれは、途轍もなく恐ろしい、イモリやった……!」


  *

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る