5-06


  *


 溜まっていた靄が溢れ出し空気に拡散して溶け消えた後には、地を這う如き凝った瘴気のみがじくじくと泥のように足許に残った。黒い瘴気は押し入れの下段から染み出しているようだ。


 見たところ押し入れの中には物があまり無く、がらんとした印象を受けた。上段には覆いを掛けられた扇風機や段ボール箱などが無造作に放り込まれている。


 そして問題の下段へとカナメが目を遣ると、小さめの書類箪笥のみがぽつんと置かれていた。浅い引き出しがずらりと並んだそれは随分と古びていて、シグレの年齢よりも遥かに長い年月を経た物のように思われた。


「シズクさん、もしご存じでしたら教えて頂けますか。……この部屋は、お兄さんが使う以前は誰が住んでいた部屋だったのですか? ついでと言っては何ですが、シズクさんの私室も教えて頂ければと思います」


 書類箪笥の引き出しを一段一段確かめながらカナメが問うと、シズクは困惑しながらも眉間に皺を寄せ記憶を辿る。


「この部屋ですか? ……ええと、そうですね……私の部屋は私が産まれる前に亡くなったお祖母様の部屋だったと聞いていますが、こっちの部屋は確か、ひいお祖母様の部屋だったかと……」


「シズクさんの部屋に押し入れや作り付けの収納はありますか? 嫌な感じがする場所は無いですか?」


「私の部屋にも押し入れはありますが、こんな、嫌な……気味の悪い感じはありません。もしあったとしたらそもそも早々に部屋を変わっていたと思います。無理にその部屋に拘らなくとも、他にも空き部屋はありますので」


 成る程……と納得しながらカナメは一本の鍵を目の前に掲げた。五段目の引き出しに入っていた物だ。大きさからして、恐らくこれが蔵の床にあった扉の鍵だろう。カナメはそれをポケットに仕舞うと、はあ、と溜息を吐いてシズクの方へと向き直った。


「という事で、無事鍵は見付かりました。──さて、シズクさん。この押し入れの床下には何か、途轍もなく嫌な物が収められているようです。この書類箪笥も含め、それは恐らくシズクさんの曾祖母であるウキヱさんの物だと思われますが……どうします? 確認してみますか?」


「それは……でも、確認、すべきなのですよね」


「そうですね。した方が良いでしょうね」


 視線が絡み合う。シズクが息を飲んだ。少しの沈黙の後、──意を決し、シズクがゆっくりと頷いた。カナメも頷きを返すと、書類箪笥に向き直る。


 カナメは両手で箪笥を掴むとゆるゆるとそれを持ち上げた。中身のほぼ入っていない箪笥はやはり見た目よりも軽い。慎重に小振りな箪笥を押し入れから出して脇へ置く。再度押し入れを覗き込むと、箪笥のあった部分の床には小さな穴が幾つか開いていた。


「穴……、カナメ様、もしかしてこれは此処に指を入れて床板を持ち上げる仕組み、という事なのでしょうか」


「恐らくそうでしょう。いきなり穴に指を突っ込むのは少し勇気が要りますが、背に腹は代えられません。いきますよ」


 カナメは表情を引き締めると穴に両手の親指と中指を順番に突き入れた。指先は何に触れる事も無く、また穴の側面は滑らかに磨かれており怪我をする恐れも無い。指を曲げて力を籠め、カナメはゆっくりと床板を持ち上げる。


 七十センチメートル角に切り抜かれた床板が徐々にずらされ、下に収められた物を露わにしてゆく。それにつれて瘴気もごぼごぼと溢れ、床板と共に押し入れの外へと這い出した。


 ようやく床板に隠されていたものの全貌が見えた時、──カナメは顔を引き攣らせて絶句し、シズクは小さく悲鳴を上げてへなへなと床に尻餅をついた。


 ──そこには、石で出来た地蔵の頭部がごろりごろり、転がっていた。


「……っ、これは、一体」


 呆然と呟きながらカナメは押し入れの床下を凝視する。どうやらそれは、意図的に作られた床下収納のような場所だ。五十センチメートル程の深さの箱めいた空間の中に、明らかに年期の入った地蔵の首が複数仕舞われていた。


 床にぺたんと座ったままのシズクも、震えながらも目が離せないようだ。戸惑いながら首の数を指折り数えてみる。


「ひい、ふう、みい、よう……。全部で、お地蔵様の頭は四つあるのですね。四つ、何で四つもあるのでしょう……? そもそもこれは、どちらのお地蔵様の首なのでしょうか」


 深く考えずに発したであろうシズクの疑問に、カナメはふと或る考えに思い至って息を飲む。再度凝視した地蔵の首は、誰かに叩き折られたような断面を晒していた。


「四つ、……この集落に四つある物。──シズクさん、この屋敷から真っ直ぐ東西南北の位置に祀られた祠があるのをご存じですか?」


「ええ、あれ……何だか気持ちが悪くて、嫌な感じがするので、私あまり近付かないようにしていたのですが……え、もしかして、このお地蔵様」


「自分があの祠の岩に触れた時には、激しい怨みや怒りのような念を感じました。そうですね、首を折られ逆さに突き立てられればどんな温厚な存在でも怒り狂って当然だと思います」


 守り神たる地蔵の首をへし折り集落の四方に逆さに据えたのは、恐らくウキヱなのだろう。そうして意図的に生み出された強い負の呪力を利用し、集落全体に呪いを掛けているのに違い無い。その呪いとは恐らく、瑞池にとって不利となる事を話せなくなる、あの術だ。


「ではこれはどうすれば……このまま放ってはおけませんよね。掘り出して首を繋げてあげれば、負の念から解放されて元に戻るのでしょうか。何らかの呪法に利用されていたのであれば、元通りの姿に戻せば呪いは解けるのでしょうか?」


 心配げなシズクの言葉に、カナメは溜息を零して地蔵の首に手を伸ばす。瘴気を漏らす程に怨念にまみれた首は、元通りの姿に戻したからと言って果たして直ぐに負の感情から解放されるのだろうか。ぐずぐずと汚泥めいた瘴気は地蔵の顔に纏わり付き、昏い染みと化して苔むした肌にこびり付く。


「正直、分かりません。地蔵を元に戻したからと言って直ぐに呪法が解除されるとは思えませんし、何より長年掛けられ続けた呪いは既に、瑞池の土地そのものに染み渡り、遺伝子に達するような深度で住民を侵している可能性がある、と思うのです」


「そう、ですか……でも、見付けたからにはこのままにしておけませんよね?」


「まあ、そうですね」


 首を傾げるシズクに苦笑しながらカナメは応え、首を竦めた。今直ぐどうこう出来る代物では無いが、それでもこつこつ元に戻してやれば、いずれは怨みが解ける日も訪れるだろう。集落にとっても地蔵そのものにとっても、その方が良いに決まっている。


 取り敢えず一度に四個全てを運び出すのは無理だと判断し、半分の二個を抱えて移動すると、二人は一旦それを空き部屋の押し入れに封印した。祠に祀られた地蔵の胴体を掘り返すのにも労力と時間が掛かる。今日明日は用事があって動けない以上、作業は先延ばしにせざるを得ない。


 鍵を探すだけのつもりが思わぬ大仕事に変貌し、カナメとシズクの二人は大きく溜息をついたのであった。


  *


 その夜は晴人の通夜である。軽く夕飯を済ませ、二人は相応しい服装に着替えてから井戸家へと向かう。葬儀そのものは静宮邸の大広間を使うが、通夜は自宅で開き、葬儀の朝に静宮邸へと移動させるのが倣わしのようだ。


 通夜の事を夜伽と称するが、やはり夜通し死者の傍で過ごす事からそう呼ばれるのであろう。訪問客も誘い合わせや示し合わせなどはせず、まだ陽が沈む前の黄昏時から深夜の時間帯に至るまで、皆ばらばらと違った時間に訪れる。


 二人が井戸家に着くと、波木光雄が丁度門から出て来る所であった。どうやら入れ違いとなったようだ。互いに軽く黙礼を交わし、二人は開かれたままの玄関から屋敷へと上がった。


 晴人の遺体は、以前カナメが晴人を投げ飛ばしたあの客間に安置されていた。カバーを新しいものに取り替えられた真っ白い布団に寝かされ、顔には白い布が掛けられている。布を捲って顔を見る事はせず、二人は静かにただ目を閉じ手を合わせた。


 部屋の隅では妹の照子が洋装の喪服を着込み、黙って二人を睨んでいる。恐らく誰かから事情を聞いたのであろう。カナメはその視線の強さに居たたまれなくなり、シズクを連れて早々に部屋を退去した。


 隣の広間では陽介が座し、二人に通夜振る舞いを勧めた。この瑞池では赤飯と焼き鳥串が何故か訪問客に振る舞われる。変わった風習にカナメは目を見張った。黒豆を用いた黒飯というのは聞いた事があるが、通夜に赤飯は初めてだ。


「ああ、夜伽の飯に赤飯は珍しいって、他の所から来たもんらが言うとったな。ようは知らんけど、あれやろ、先祖の元へ行って地の礎になれるけんめでたい、っちゅうとこから始まったとか何とか聞いた覚えがあるんやけんど、ほんまかどうかはよう分からんわ」


 カナメの驚きようが面白かったのか、陽介は力無く笑いながら胡麻塩を振った団子状の赤飯を二人に差し出した。広い卓には沢山の湯呑みが伏せられ、電気ポットと一升瓶が置かれている。大皿に山と盛られた焼き鳥は全てたれ味の腿肉ねぎまのようだ。


「すまんなあ、折角めでたい事があったばっかりやっちゅうのに、こんな、ケチ付けるみたいな死に方、息子がしくさってなあ」


「いえ、そういうのは本当に、お気になさらず……」


 自嘲するような陽介の言葉を否定しながら、注がれた酒をカナメはくいと呷った。これは──どうしようもなく、苦い酒だ。陽介の充血した目が澱み、夜を虚ろにしてゆく。二人は赤飯と焼き鳥を義務感で胃に押し込むと、早々に井戸宅を辞したのだった。


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