5-03
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井戸宅を辞し、カナメは静宮邸へと帰り着いた。
「お帰りなさいまし、カナメ様。お腹空いているでしょう? 何か少し食べる物をお待ちしますね」
シズクに言われ、カナメは初めて自分が朝食を摂っていなかった事を思い出す。促されるままに居間に腰を下ろし、ストーブの前で丸まる安田さんの頭を撫でた。見上げた時計は十字の少し前を指し示している。
表からは女達のかしましい声が響いていた。恐らく大広間を片付け、そして葬儀の為の斎場へと模様替えをするのだろう。昨日終えたばかりの祝言が、もう随分遠い事のように感じられる。
シズクが運んで来てくれた握り飯を食べ、熱い茶を飲むとようやく人心地が付いた。一服してから溜息を交え、カナメは井戸宅で起きた事をシズクへと話して聞かせた。
「晴人さんの具合と葬儀の日取りは聞きましたが、……まさか、そのような。それにその、ひいお祖母様のお話やイモリの事、私、どのように受け留めれば……」
「突然聞いても驚くばかりで直ぐには飲み込めないと思います。無理に今直ぐ理解する必要はありません。落ち着いてから冷静に物事を判断し、一つずつ考えてゆけば良いのです」
戸惑いを露わにするシズクに、その手を優しく握りながらカナメが静かに説いた。曖昧に頷くシズクを抱き寄せ、カナメはそっと耳許で囁く。
「大丈夫、自分に全て任せておいて下さい。きっと、自分が何とかしてみせます」
「カナメ様、……でも私、カナメ様に頼ってばかり」
「シズクさんは今迄充分苦労して来たではありませんか、頼ってくれて良いのです。それでも納得出来ないというのなら、出来る範囲で構いません。手助けを、援護をお願いします」
「それでしたら、是非。私、カナメ様のお役に立ちたいのです」
胸に縋り付き頬を擦り寄せるシズクが愛しくて、カナメは撫でるように髪を梳く。と、不意にふきゅう、と妙な音が聞こえ顔を上げた。二人の視線が同時に音のした方へと向けられる。すると、安田さんが大きく口を開けて欠伸をしているではないか。
「もう、安田さんったら!」
我に返ったシズクが耳まで真っ赤に染めながら声を上げた。そんな非難を意に介する事無く、安田さんはまた丸くなって寝息を立て始める。カナメはははっと笑い、気を取り直して残った茶を飲み干したのだった。
*
「では、……いきますよ」
カナメとシズクの二人は例の結界が張られた書庫の前に立っている。カナメの考えが正しければ、今のカナメならば問題無く結界の中へと侵入出来る筈だ。
そっと腕を伸ばし、カナメはゆっくりと部屋の中へと手を差し入れる。──あのびりっという痛みは訪れなかった。部屋の中まで腕を突き入れ、敷居を跨ぎ、身体全体を部屋へと入り込ませた。拒絶は無い。結界はカナメには作用しなくなっている。
「やはり。……成功です、シズクさん。問題無く部屋に入れるようになっています」
「凄いです。カナメ様の仰っていた通りになりました!」
驚きにシズクが目を見開き、ぱちぱちと小さく拍手をした。
──切っ掛けは沢田の話だった。屋敷で遊んでいた際に、シズクの無父が結界が張られている筈の蔵に居たというものだ。最初、カナメは結界に入る事が出来るのは巫女の血を引くものだけかと思っていた。しかし婿である亡父が侵入出来るのならば、カナメも婿として静宮家の一員となれば結界の中に入れるのでは、と思い至ったのだ。
別にその為だけにシズクと結婚したのでは無いが、それが切っ掛けとなったのも事実である。少しの後ろめたさはあるものの、しかしシズクと夫婦になる事そのものに後悔は無い。
「とすると、蔵の方にも入れるのですよね。先に試してみます? カナメ様」
「そうですね、懸念は先に消しておきたいですね。それから、他に入ってはいけないと言われていた場所、結界が張られていそうな部屋はありますか?」
「他、ですか? ……特には無かったかと思います。幼少の頃に入ってはいけないと言われていたのは、父や母、ひいお祖母様の私室などでしたし」
シズクの返答を聞き頷くと、早速カナメは蔵へと向かった。──結論から言えば、カナメは無事蔵へと入る事が出来た。近付くのも困難だった以前とは雲泥の差だ。多生の瘴気は気になるものの、調査を行うには支障の無い程度である。
「では、どうされます? このまま蔵から見てみますか、それとも戻って書庫を?」
「折角ですのでこちらから見てみましょう。あちらの様子は分かっていますし、何より書の類いは腰を落ち着けて調べてみる必要があります。昼まではこちら、昼食後からは書庫でいいかと」
「分かりました。では、そのように」
そして二人は蔵の探索を始めた。そこそこ広い室内には鉄製の頑丈そうな棚が何本も置かれ、無造作に雑多な品物が詰め込まれている。物置と称していただけの事はあり、その殆どが古くなった家電や使わなくなった品などのがらくたのようだ。
また壁際には天井まで届く作り付けの木製の棚が設えられており、そちらには鉄製の棚のものよりもより古い年代の物が収められていた。よく分からない木箱や埃を被った長持、古びた小箪笥などが並ぶ中、幾つかいわくありげな品が混じっている。
カナメはそれらを手に取り確かめてみるものの、呪法や霊力の残り香はこびり付いてはいるが、さほど大した物では無さそうだ。瘴気を漂わせてはいても害を成す程の品物は見たところ皆無である。
カナメはそれらを一つ一つ確認しながらも首を捻る。──確かに今も蔵には薄らとした瘴気が満ちている。しかし気が澱んでいるとは言え、これら残り滓の如き物品から漏れる気程度では、蔵に満ちる程の瘴気を生み出せるとは到底思えないのだ。
ふむ、と目を伏せて思案し、カナメは精神を集中させながら瞳を開く。カナメの琥珀めいた瞳が黄金の輝きを帯びる。
ゆっくりと蔵の中を見回し、──カナメの眼が、ある方向で止まった。
それは蔵の一番奥、入口から最も遠い突き当たりの壁だ。左右の壁が棚になっているのに対し、そこだけは棚の無い土壁そのままの空間であった。雑多に大きめの箱などが積み上げられ、他の場所よりも更に混沌として見える。
照明の届きにくい凝った闇がわだかまり、そして──濃い瘴気が、這い出していた。
「あの辺りがどうも怪しい気がします。シズクさん、何かご存じではありませんか?」
「いえ、私はあまり此処には入るなと言われていたので……」
奥に向かうカナメの問いに、シズクも首を傾げつつ付き従う。二人は壁の前に到達すると、積み上げられた荷物の前で辺りを注意深く観察した。
「どうやらこの辺が一番瘴気が濃いように思います。しかし、別段変わった所は……」
カナメが入口から向かって左寄りのとある場所をじっくりと眺める。しかし雑然と荷物が置かれているだけで、特段変わった様子は見られない。だが、カナメの声に寄って来たシズクが何かに気付き、あっと声を上げる。
「カナメ様、ここ、この辺を見て下さいまし。床の埃が、少しおかしくはありませんか」
シズクの指し示した箇所を注視したカナメも、思わず声を上げた。
「ああ、本当だ。此処だけ埃が薄い……これは何かを動かした跡のように見えます。凄いですよシズクさん、よく気付いてくれました」
それは誰かがその周辺の荷物を動かしたのであろう事を示していた。しかも埃の積もり具合から見てごく最近ではなく、数ヶ月ほど前のように思われる。カナメは埃と荷物を見比べ、恐らく動かされたのはこれであろうと当たりを付けて、荷物を慎重に移動させた。
何段か重ねられた大きな長持は意外な程に簡単に動いた。いや、動かす事が前提であるならば、軽いのはむしろ当然だったのかも知れない。
そして荷物を退けたその下、床に現れたのは──。
「……これ、……扉、ですよね」
シズクが驚いて目を見張る。カナメも同様に息を飲んだ。
そこには、扉があった。地下へと続いているであろう、人一人が通れる程度の大きさの扉だ。
そして隙間とも呼べない程の床と扉の境目からは、絶え間なく黒い瘴気がぐずりぐずりと、染み出し続けていた。
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