4-09


  *


 カナメは肉を咀嚼した。臭みはあまり無いものの、噛む程に言いようの無い不快感が口内に満ちる。少し筋張った赤身に脂肪が巻いた肉は見た目は豚に少し似ているが、決定的に何かが違った。


 ──これは、何の肉だ。今までの人生で食べた中でおよそどの肉とも違う味。カナメは生臭坊主かつ美食家であるアミダに様々な物を喰わされて来たが、これは豚とも牛や鶏とも、鹿や兎や猪とも、増してや餓えた時分に食べた鳥や蛇や蛙とも違う。


 しかし自分はこの味をどこかで喰った事がある。カナメの記憶の奥底、忘れたくとも忘れられない経験がそう告げるのだ。


 目の前では達夫が喰えと急かしている。皆の視線がカナメを追い詰める。口内の肉を酒で嚥下し、更に残りを口に放り込み咀嚼し、詰まりそうな喉を気合いで堪えて酒で無理矢理飲み下した。


 カナメは息をつくと作り笑いを浮かべ、達夫に軽く礼をする。


「美味しかったです、ありがとうございます。それにしてもこの肉は何の、」


「それは答えられんなあ」


 達夫の口から平坦な声が落ちた。笑みに歪められた目の奥、黒目が深淵めいた闇を黒々と映している。ぞわり、肌が粟立つ。──これ以上、長引かせてはいけない。カナメは背筋に走る嫌悪感を噛み殺し、杯の中の酒を干した。達夫は満足げに頷くと、さっと皿を回収し酒瓶を提げて帰って行く。


 冷や汗で背中がべっとりと冷たい。周囲を観察するがもう先程のような視線は無くなっている。喉から違和感が拭えず、胃の底が重く冷える。カナメは濯ぐように茶を飲むとまた何人かのことほぎを受け、しばらく経って列が途切れた隙にシズクの耳許に顔を寄せた。


「シズクさん、すみませんが自分は少し席を外します」


「お手洗いですか? 何だかお顔の色が優れないように見えるのですが、大丈夫ですかカナメ様……どなたかに付いて行って頂いた方が宜しいのでは?」


「いえ、少々飲み過ぎただけですよ。大丈夫です、直ぐに戻りますのでご心配無く」


 気遣わしげなシズクの視線から逃れるようにカナメは立ち上がり、目立たぬよう広間の端の障子戸からするりと廊下へ抜け出した。ぴたり戸を閉じると喧噪が少し遠くなる。誰の姿も無い事を確認し足早に廊下を進む。


 広間に近い場所では誰かと鉢合わせる懸念があった。カナメは屋敷の北側、家人の私室などの近くに設けられた厠の扉を開いた。幸い、周囲にも厠の中にも人の気配は皆無だ。カナメは着物を汚さぬよう懐に入れていた手拭いを床に敷くと、洋式の便器の前に膝を突いた。


「……っ、ぅ、ぐ……ぇっ」


 喉に指など突っ込む必要すら無かった。便座に手を突き顔を俯かせると、それだけで直ぐ吐き気が胃を痙攣させる。口内に溜まった唾を何度か吐くだけで、それが呼び水かのように胸が搾られ嘔吐感がせり上がる。喉が熱くなったと感じた瞬間、一気に胃の内容物が便器の中にぶち撒けられた。


 酸い液体とどろどろと既に消化された食物に混じり、先程食べた肉片が原型を留めたまま、ぼちゃりぼちゃりと吐き出される。ぐちゃぐちゃに咀嚼された肉の異物感を思い出し、また喉が痙攣する。びちゃびちゃと汁気の多い吐瀉物が肉片に掛かり、しかし覆い隠せもせずにどろりと醜悪さを際立たせた。


 カナメの目に涙が滲む。鼻奥の痛痒さに軽く噎せる。まだ嘔吐は収まらず、胃がぐっと搾られて苦い液体が喉を灼く。荒い呼吸に、ひゅう、と胸が痛む。


 ──ああ、思い出した。自分はこの肉の味を知っている。


 忘れられない記憶、何度も夢で見た光景。そう、それは恋人のシズキが殺される時に味わったものだ。


 狂神を信仰する信者達の隠れ里で、シズキは神への捧げ物として生きたまま焼かれ、穴という穴を犯され、腹を裂かれ、手足を落とされ、肉を削がれ、自らの糞便を詰め込まれて凄絶な苦痛を味わいながら死んでいった。調査していた他の仲間達も次々と襤褸切れの如く、またごみ屑のようになって息絶えた。


 最後にカナメの番となったが、既に生贄の数は足りていたらしく、次の祭の日まで生かす代わりにと交渉を持ち掛けられた。──曰く、この女の肉を食べられれば殺さないでおいてやる、と。


 泣きながらカナメは焼け爛れたシズキの肉を食んだ。嘔吐感が止まらなかったが、吐き戻すとまた吐いた肉が口に押し込まれ嚥下するまで押さえ付けられた。ろくに血抜きもされていない肉は、癖が少ない割に噛む毎に嫌悪感が押し寄せた。吐いて、食べて、また吐いて、──喉も口内も鼻の粘膜も、口から顎にかけても胃液で爛れびりびりと痛んだ。


 身体が限界を迎え吐く体力すら無くなってようやく、カナメはその拷問じみた時間から解放された。上半身は自らが吐瀉した汚物でぐちゃぐちゃになり、下半身は無意識に失禁した糞尿でどろどろに汚れていた。そのまま格子の嵌まった洞に放置され、水すら与えられず溜まった泥水や自らの尿で喉の渇きを癒やし、そして──どうにか逃げ出し、生還したのだ。


 全てを思い出し、カナメは再び胃液を吐いた。そして尽きるまで出し切り胃が空になってようやく顔を上げる。大きく呼吸を繰り返し、滲む涙を拭き、鼻を啜り、口許を拭って奥歯をギリと噛み締めた。


 そうだ、あれは──人肉の味だ。


 その肉が一体誰の物なのかは分からない。しかし恐らく今迄もこうして、瑞池に嫁や婿に来る者に食べさせてきたに違い無い。これは仲間になる為の通過儀礼、もしくは共犯者にする為の行為なのだ。


 カナメは呼吸を整え立ち上がると、レバーを引いて水を流した。瑞池には下水道は整備されていない。これは簡易水洗という、地下に埋められた便槽に汚物を溜める方式だ。今カナメが吐いた誰かの肉も、便槽の中で糞便汚泥と混ざり、腐り、汚濁と化してゆくのだろう。やりきれなさにまた、カナメは奥歯を噛んだ。


 洗面所で顔を洗い、鏡で顔を確かめる。表情は少し疲れてはいるが、顔色はそう悪くはない。深呼吸をしてから両手で頬を叩き、気合いを入れ直して何事も無かった顔で大広間へと戻った。


「カナメ様、お帰りなさいまし。その、大丈夫ですか?」


 席に座るとシズクが心配げにそう問うて来た。笑みを見せて大丈夫と返し、茶で喉を潤す。皆は宴もたけなわと言った様子で、広間は喧噪と笑顔に満たされている。


 懐から煙草を取り出すと、カナメは用意されていた灰皿を引き寄せて煙草に火を点けた。深く吸い込むと、爛れた喉が少し痛んだ。それでもゴールデンバットのいつもの味に安堵し、紫煙を吐いてはまた深く吸い込む。


「……シズクさん」


「どうしました、カナメ様」


 シズクの心地良い声が自身の名を呼ぶ。それが堪らなく嬉しくて、シズクが生きている事そのものが愛おしくて、カナメは胸の奥が熱くなる。自分はどのように穢されても、傷付けられてもいい。辛酸なら幾らでも舐めて来た、血なら幾度となく流して来た。


 ──シズクだけは、何があっても護らねば。カナメは胸の中にその決意を刻み、奥歯を噛んだ。


「シズクさん、今度街へ行きましょう。美味しい物を食べて、綺麗な洋服を買って。ああ、それに自分はあなたにまだ婚約指輪も結婚指輪も贈っていないのです」


「そんな、宜しいのですか、カナメ様……。私、自分の為にあつらえた指輪なんて一つも持っておりません。憧れておりました……本当に、良いのですか」


「勿論です。どんな宝石がお好きですか。シズクさんの指は白くて綺麗だから、きっとどんな指輪でも似合うと思います」


「本当に? 本当に良いのですかカナメ様。私、嬉しいです。幸せで、幸せ過ぎて怖いぐらいです……」


 カナメはシズクの手をそっと取ると、少し冷たいその指を温めるように握った。──もう自分は決して離さない。大切な人の手を、救いを求めて伸ばされた手を──。


「シズクさんはもっともっと幸せになるべきです。自分がきっと幸せにします。どんな事からも護ります」


 ぬくみを帯び始めた指がそっと握り返す。幸せを掴もうとするその小さな手を、カナメは祈りを籠めて大きな手の平で包み込むのだった。


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