4-03


  *


 ──そこはまさに、座敷牢そのものだった。


 カナメがシズクの亡き父の物だという着物に着替えを追えた後、カナメとシズク、そして清水は離れへと向かう事となった。清水が先導するように歩き、二人が後に続く。


 母屋から伸びる短い渡り廊下には、屋根と手摺りめいた柵はあるものの壁は無く、吹き曝しの床が氷の如く冷えている。きしりと鳴る板張りの渡り廊下を進んだ先、そこに静宮家の離れはあった。細長い平屋建ての建物を、渡り廊下と同様に壁の無い廊下がぐるり囲んでいる。


 中にあるのは簡単な炊事場と厠、風呂と洗濯室を兼ねた水場、幾つかの小部屋。そして南の突き当たりには物置に使っている蔵、北端にはシュウコが住んでいる部屋があるのだと言う。


 三人は離れの回廊を、結界の施された蔵とは逆の方向へと向かう。程無く廊下の先、閂の掛けられた扉が姿を現した。


 戦闘を進んでいた清水が閂を外し、両開きの扉を開け放つ。その瞬間、ぎい、と軋んだ音を響かせて開かれたその空間から、饐えた異臭が溢れ出した。カナメが思わず顔をしかめると、困ったように清水が苦笑を浮かべる。


「すんませんね婿様。どうしても匂いが籠もるもんで」


「いえ、──しかし、これは」


 匂いへの驚きなど吹き飛ぶ程に、カナメは目の前の光景に虚を突かれ息を飲む。


 さほど広くは無い板張りの小部屋の向こうに、格子で区切られた部屋があった。畳敷きのそこは人一人が生活するのがやっとの手狭な空間だ。頑丈そうな木の格子戸には大きな南京錠がぶら下がっている。異臭は、その部屋から溢れ出していた。


 絵に描いたような座敷牢の光景に、カナメの顔が強張る。ちらと見遣ったシズクは、唇を噛んで暗い表情を俯かせていた。清水だけが普段通りの顔のまま格子戸へと歩み寄っていく。慣れの所為か、麻痺しているのか、それとも──。カナメは立ち尽くしたまま食い入るように清水の後ろ姿を見詰めた。


「シュウコ様、シュウコ様。うちです、清水です。さっき御飯食べたばっかりやのにまたすんませんねえ」


 格子戸の傍に座り清水が呼び掛けると、ぞろり、と陽の届かぬ暗い牢の奥で何かが蠢いた。それは緩慢な動作でそろりそろりと這って来る。やがて姿を現したのは、──黒い着物を着込んだ女だった。


 驚く程に整った顔立ち、きちんと結い上げられた黒髪。年の頃は三十後半といった所だろうか。しかし張りのある肌やくっきりとした目鼻立ち、そして女の色香が歳よりも随分とその女性を若く見せている。


 そう、色香だ。長く影を落とす睫毛、目許の泣きぼくろ、紅く熟れた唇、しっとりと濡れた瞳、白いうなじ──纏った喪服ですら、女の艶を際立たせる為の衣装に思える程に、性的な魅力を放っていた。


 しかしその表情は虚ろで、黒々とした瞳は何者をも捉えてはいない。格子戸の傍まで這い寄ってきた女は、無表情のまま正座をすると膝の上で手を重ね、ぴんと背筋を伸ばした。


「シュウコ様、体調はどうです? 起きていても大丈夫ですか? ちょっとお話をしたいんやけど」


 清水が呼び掛けると、シュウコは首を折るようにこくりと頷いた。姿勢は崩さぬままだ。大丈夫、という事なのだろうか。清水に目配せをされたカナメとシズクは、ゆっくりと前に進みそして格子戸を挟んでシュウコと向かい合うように座った。


「……誰、なのかしら」


 か細く弱々しい声がシュウコから零れる。見ると瞳は揺れ、唇は微かに震えていた。少し引き攣った表情が示すのは、怯えの感情だろうか。その雰囲気を察した清水がにこやかに口を開いた。


「シュウコ様、分かります? シズク様です。それからその隣が、シズク様のお婿様ですよ」


「シズク……? シズク……。今の、静宮の、巫女なのかしら? 髪が、目がおばあさまと、一緒だわ……」


 途切れ途切れに呟く言葉には力が無い。余り意思を感じさせぬその表情と言葉の内容に、再び清水が目配せを寄越す。シズクは小さく頷くと、少し身を乗り出してシュウコに話し掛けた。


「そう、シュウコさん、私が今の静宮の巫女です。シズクです。この度、婿を取る事になったので、シュウコさんにも報告に参りました」


「ああ……、それはご丁寧に、ありがとうございます。心より、およろこび、もうしあげます……」


 そしてシュウコはゆっくりと、緩慢な動作で床に手を突き頭を下げる。額を畳みにこすり付け、たっぷり十秒以上静止してからまたゆるゆると頭を上げた。それを息を詰めて見守っていたシズクは、自身も頭を垂れて礼を述べる。


「──こちらこそ、ありがとうございます」


 その声は感情を押し殺すように震えていた。シズクが姿勢を元に戻したのを確認し、清水が今度はカナメに目を遣る。頷きを返してから、ゆったりとした動作で軽く頭を下げ、カナメは出来るだけ柔らかい声でシュウコに話し掛ける。


「この度、シズクさんと結婚し、静宮家に婿入りする事になりました、カナエ・カナメと申します。宜しくお願い致します」


「婿入り……それは、おめでとう、ございます……」


 シズクの時とは違い、シュウコは今度は少し怯えた色を見せながら、それでも一応の祝いの言葉を吐き出した。体裁だけ整えれば良いのならば、これで充分だろう。清水はそう判断し、再びシュウコに声を掛ける。


「シュウコ様、お疲れ様です。座っているのしんどいでしょう。挨拶に来ただけなので、もうこれでおいとましますね」


 すると意図が伝わったのか、シュウコがまたがくりと首を前に倒した。肯定のつもりなのだろう。清水は格子戸から離れるようカナメ達に手で合図しながら、シュウコに微笑み掛ける。


「また来ますからね。シュウコ様、ゆっくり休んで下さいね」


 刺激しないようそろそろと後ろへ下がりながら、カナメはシュウコから目が離せないでいた。艶めかしく美貌を保ちながら、記憶を失い、痴呆の老婆の如き受け答えをする女。自らの子供の顔も忘れ、牢の中でただ独り、腐りゆく花──。


 ふとシズクの様子を窺うと、唇を噛み締め拳を握り、肩を震わせて必死で何かに堪えていた。無理も無い。このような姿に対面するなぞ、いっそ亡骸を見るよりも余程辛いというものだ。割り切れず、諦めも付かず、遣る瀬なさに押し潰される胸の内はいかほどか。


 二人は牢から充分に離れるとそろり立ち上がった。清水も話を終えてこちらへ向かおうとしている。これで肩の荷が下りた──とカナメが息をつこうとした、その瞬間。


「あ、あ、ぐああがっが、あ、ぁあ、あががががあああぁあああっ!」


 濁った絶叫が、空気を切り裂いた。


「っ、な──」


 何事かと格子の向こうを見遣ったカナメの瞳が捉えたものは──激しく揺れ動く、黒衣の女。


 シュウコが膝立ちになり、白眼を剥いて首を反らし、涎と絶叫を撒き散らしながらがっくんがっくんと痙攣していた。


「し、清水さん、あれ、あれ……!? な、なな何が、」


「いや、こんな、こんなのは初めてで、うちにも、分からん、分からんのです、どうすれば、どうしたら、」


 シズクが泣きそうな顔で清水を見るも、真っ青になった清水はただただ首を振る。その間にもシュウコの痙攣はより激しさを増し、やがて座っている事すら出来ずに床に倒れのたうち周り始めた。


「おごっ、おおぉおおうううご、ご、ごごごぅぶっ、ご、あがっががが、う、うぅううううぅうう!!」


 やがてその身体は引き攣り、弓なりに反らされてびたんびたんと床を打つ。大きく開かれた唇は裂けんばかりで、絶叫と涎を押し出すが如く伸ばされた舌がびちびちと空を掻いた。突き出された腹は帯で締められているのにも関わらず見る間に膨らみ、そして──。


「お、おぉおおっげ、げあああ──ごぼっ、ご、ぼおおおっっうぅうぅげええぇえええっえええっ!!」


 ぶしゃあ、と最初に迸ったのは、透明な水。


 次いで、何やら黒い物が混じった泥水がシュウコの口からごぼりごぼりと吐き出される。


 その勢いは激しく止め処なく、およそ人間の口から出た物とは思えない臭気を撒き散らしながら床に広がってゆく。その光景に、清水は腰を抜かして尻餅をつき、シズクはがくがくと震えながら床にへたり込んだ。


 立ち尽くし動けぬまま、カナメはただ凝視していた。吐き出された泥水の中、ぬちぬちと蠢く黒い影、無数に這い回るその生き物を。


 ──イモリ。


 シュウコの体内から泥水と共に吐き出されたイモリ達が、おぞましい程の数のそれらが、床のみならず、壁を、天井を覆い尽くし、赤黒い闇となって牢を浸食してゆくさまに──三人はただただ、震える事しか出来ないでいた……。


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