4-04


  *


「うええええぇえ、え……ぐぼりっ! おごっ、げ、う……あ、ごほっごほっ、げふっ……あ、ぐ、……っ」


 シュウコが吐き出す水の勢いが弱まり、最後にどろりと大きなイモリと共に粘度の高い汚泥をごぼりと噴き出すと、もう栓を閉めたが如く何も流れ出なくなった。代わりに喉の異物感からか何度も噎せ、弱々しげに呻いてぱったりと動かなくなる。


「っ、か、かあさま……!?」


 呆然と震えていたシズクが、倒れたきりのシュウコを心配し声を上げた。そこでようやくカナメと清水も我を取り戻す。


「かあさま、ああ、かあさま! 鍵、清水さん鍵は……!?」


 取り乱し格子に駆け寄って扉を開けようとし、ようやくシズクは南京錠の存在を思い出す。清水が割烹着のポケットから鍵を取り出すと、シズクは転びそうになりながら手を伸ばした。


「はい、はい、シズク様、これです、鍵はこれです!」


 遅れて格子戸に走り寄るカナメの目の前で、うぞ、と闇が動いた。部屋を覆い尽くすイモリの群れが、一点を目指し集まり始めたのだ。カナメは咄嗟にシズクを押し退けると、清水の差し出す鍵をその手から奪い取った。


「シズクさん、下がって下さい! 危険です!」


「でも、でも……」


「早く!」


 カナメの言葉にびくりと肩を振るわせ、よろけるようにシズクは後ずさる。そして倒れそうなシズクの華奢な身体を支えた清水に、カナメは鍵を開けながら叫んだ。


「清水さん、ここは自分が何とかします。シズクさんを連れて早く部屋の外へ! それから水を、バケツでも桶でも何でもいいです、水を汲んで来て下さい。何なら直接ホースでも構いません!」


「はい、はいっ!」


「部屋の外に用意しておいて下さい、事が済むまで決してこちらには近付かないように!」


「わ、分かりました……!」


 弾かれたように清水がきびすを返し、まだ躊躇しているシズクを引き摺って扉の向こうへと走り出る。それを確認し、カナメはぎい、と軋む格子戸を開け放った。


 イモリは覆い尽くすかのようにシュウコに這い寄り、その身体に取り付いてゆく。シュウコの喪服が、白い肌が、漆黒の髪が、爪先に至るまでイモリに覆い隠される。蠢く赤黒い塊はシュウコを核にしてヒトガタを作り、やがて──。


 汚泥にまみれた床をぐずりと踏み締め、ヒトガタはゆっくりと立ち上がった。


 その表面はぬらぬらと蠢き、びちびちとイモリが零れる。シュウコの顔があると思しき部分には、最後に吐き出した大きなイモリが張り付いていた。カナメは油断無くその様子を睨み付けながら袂からライターを取り出す。


「牽制か、警告か……はたまた焦りからの実力行使か。結婚の妨害をしたいにしても、なかなか酷い強硬手段ですね」


 ごぼごぼと下水の泡立ちじみた音は咆哮のつもりだろうか。腐った汚水の悪臭を撒き散らしながら、ヒトガタが一歩踏み出す。ぐずり、とぬかるんだ畳が音を立てる。


「にしても、──核がシュウコさんという事は、即ちそれ自体が人質という事。意図したかどうかは不明なれど、結果的に非常に厄介ですね。なれば──」


 カナメはすいと腕を伸ばし、ライターの蓋を弾く。キィン、という澄んだ音が響きオイルの匂いがふわり漂う。


「──滅するのではなく、祓えばいいという事!」


 ホイールを擦り火花が散ると同時、シュボウ、と焔が立ち昇る。輝きを受けて、カナメの瞳が黄金に煌めき始める。腕を振るに伴い、焔が空中に線を描く。


 紅と黒が混じり合った瘴気が渦を巻いて溢れ、ヒトガタが格子に手を掛けて力を込める。ミシミシと不穏な音が響き、間髪入れずバキリ、と壁との接合部から格子が外れる。べきり、べきりと木製の格子を破壊しながら、ヒトガタが一歩、また一歩近付いて来る。


 焔の線をカナメが握った刹那、それは実体を取り戻し、炎える刀身を持つ直刀へと変化する。灼熱に輝く剣をカナメが一振りすると、火の粉が燐光の如く舞い散った。爛々と瞳を金に染めながら、ふ、とカナメが笑う。


「覚悟!」


 浄化の炎を纏った剣が一層輝きを増す。藍の着物の裾を翻し、カナメがヒトガタへと肉薄する。赤黒い瘴気がカナメを覆おうと押し寄せるも、熱に触れた雪の如く溶かされ掻き消えてゆく。


 掴み掛かろうと伸ばされた腕をまず一閃、肘から切り飛ばされ宙に舞った腕は一瞬で崩壊する。バラバラとイモリが飛び散り、地に落ちる前に消えてゆく。


 次いで返す刃を横に薙ぎ、もう片方の腕が飛ぶ。半ばまで斬られた腹部からも爆発したかの如く大量のイモリが散った。


 それでも進もうとするヒトガタに目をすがめ、カナメが笑う。


「これはなかなか斬り応えがある。ならば、千々に散るまで斬り続けるのみ」


 脚を、肩を、胸を焔の軌跡が裂く。ごぼごぼとヒトガタが尚も咆哮を上げる。斬られた箇所にイモリが集まり脚を、腕を生やそうとするも、カナメの剣の速度には追い付けない。


 何度刃を走らせたか──やがてようやくイモリの蠢きは止まり、力尽きたイモリ達がボロボロとシュウコの身体から剥がれ落ち始めた。瘴気は既に薄く、されどまだ辛うじてヒトガタは立ったままだ。


 カナメは改めて剣を握り直すと、息を静めヒトガタの正面で大上段に振りかぶる。


「これで……最後です」


 焔が振り下ろされる。ヒトガタの頭頂部から床まで、軌跡が真っ二つに斬り下ろした。残っていたイモリ達が弾け飛び、燐光となって散ってゆく。


 そしてゆっくりと、ヒトガタだった物は崩れ落ち、べしゃりと床へとその身を横たえた。──白い肌が露わになる。ヒトガタはもう、シュウコの姿を取り戻していた。


 カナメは残った焔を燃え立たせ、薙ぐように空間を裂く。浄化の焔が散り、咲き乱れ、牢の中からおぞましい呪法の痕跡を祓ってゆく。部屋を舐め尽くした焔が消えると同時、カナメの手の中から剣もまた、姿を消した。


 カナメは息をつき、顔に飛んだ汚泥を手の甲で拭う。──ふと見下ろした足許に、炭となったイモリが一匹横たわっていた。大きさからすると、あの顔に張り付いていたイモリのようだ。恐らくこれが呪法の芯だったのだろう。手を伸ばそうとした瞬間、その骸はぼろりと崩れ、跡形も無く消え失せた。


「婿様、お水お持ちしました!」


「カナメ様! カナメ様! ご無事ですか!?」


 その時、ようやく戻って来た清水とシズクの声が部屋の外から響く。カナメが振り返ると、シズクがカナメに向かって泣きながら走って来る所であった。


「ああ、カナメ様、ご無事ですか! イモリは、かあさまは」


 カナメがその胸でシズクを受け止めると、ぼろぼろと涙を零しながらシズクはカナメの身体に縋り付く。落ち着かせるように華奢な背を優しく撫で、カナメは牢の中へと目を遣った。


「全て、終わりました。もうイモリはいません。シュウコさんも無事です。ただ恐らく呪法の影響で身体が少し弱っていると思いますので、他の部屋でゆっくり寝かせた方がいいでしょう。床が……この状態ですので」


 その言葉に、シズクは安堵して力が抜けたのかへなへなと床に座り込んだ。カナメはシズクを清水に預けると、水のたっぷり入ったバケツを持ってシュウコに近付いた。命に別状は無い筈だが、汚泥と煤にまみれその身体は酷く汚れている。


 カナメはバケツの前にしゃがむと柏手を打ち、手早く祓詞を奏上した。気持ち程度のものだが少しは浄化の助けになる筈だ。そしてバケツの半分程の水をシュウコの全身に浴びせると、バケツを置いて清水へと振り向いた。


「清水さん、シュウコさんを脱がせて身体を水で清めてあげて下さい。終わりましたら簡単に何か着せるか大きな布で包んでくだされば、自分が運びますので」


 頷いた清水が慌ただしく動き始める。幸いにも小部屋の壁面にある棚に着替えやタオルが置かれているらしく、何かを取りに部屋を出る必要は無さそうだ。カナメは息をつき、部屋の外へと歩み出る。


 外は相変わらずの霧雨で、静宮家の母屋が僅かに霞んで見える。微かに聞こえるかしましい声は、宴の準備に来ている女達の物であろうか。


 カナメは深呼吸じみた大きな溜息を吐くと、かじかんだ手を擦り合わせる。そして少し緩んだ帯を締め直すと、袂に手を突っ込み再び大きく息を吐いたのであった。


  *

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る