四章:祝いの宴と、剥く悪意
4-01
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「……ほう、それであんたが静宮の婿になるっちゅう、そういう事なんだな」
静宮邸程ではないものの、他の住民の家屋とは明らかに違う大きな屋敷──それが井戸宅であった。
広い客間に通されたカナメは今、井戸家の長である日出男と向かい合って座している。襖には墨絵の鷹が睨みを利かせ、障子戸の向こうに覗くのはよく手入れされた松が見事な庭だ。床の間にはいかにも玄人好みしそうな壺と虎の掛け軸。
重厚さをふんだんに匂わせる作りと調度品で固められた屋敷であった。静宮邸を繊細な優美さと細やかさで飾られた女性的な屋敷と称するなら、井戸家は明らかに男性的なそれを醸し出している。
そして現在の長である日出男は、この屋敷の雰囲気に余りにも似つかわしい、厳めしく威圧感の或る老人であった。
「はい。シズクさんと結婚する旨をご報告したく──」
腰を折り頭を下げるカナメを見据え、日出男はフン、と鼻を鳴らした。
「報告じゃのうて、承諾を貰いに来る、の間違いじゃろがい。まあええ、反対する理由は無い。あんた、あの娘の事は知っとるんだろうな? あれは普通の女じゃない、まともな身体はしとらん。それでもええんか?」
「承知しております。理解した上でシズクさんに結婚を申し込みました」
真っ直ぐに顔を上げてカナメは言い切る。日出男の物言いに対する批判を視線に込めるものの、日出男はククッと喉を鳴らし軽くそれを受け流す。
「ひょろ長い、伊達を気取っとるだけの男かと思うたら、意外と腹は据わっとるようだな。いいだろう、あんたが何者でも構わん、素性も問わん。静宮家に入ってくれるなら何も文句は言わんよ。但し──」
「何でしょうか」
尊大な態度に瞳を細め、カナメは静かに問う。条件があるのならば交渉するだけだ。押さえ付けられて頷くのみの存在だと思って貰っては、今後に支障を来しかねない。
「瑞池には大事な祭があってな、それがこの二十日の夜に控えとるんだ。だから婚礼の儀はその一週間前、十三日に執り行って貰う」
カナメは驚きに目を見開いた。十三日と言えば今週末の日曜日、今が木曜日であるから準備には二日しか掛けられない事になる。
「少し、早急過ぎやしませんか。幾ら何でもそれでは準備が──」
「宴席の手配は全部こちらでやる。衣装も用意する。なに、書類なんぞは後からで構わん、肝心なのはお披露目だからな。それとも何か、急過ぎると不都合でもあるんかね?」
「いえ、それなら……」
少し呆気に取られたものの、冷静になって考えればこれはカナメにとっては好都合だ。戸籍上で夫婦となる事よりも、恐らく瑞池の中で夫婦と認められる事そのものの方が重要である筈だ。
「あんたは何もせんでええ。ああ、いや、一つ重要な役目があるな。あれの母親に報告っちゅう重要な仕事が」
「シズクさんのご母堂、当代の巫女のシュウコさんですね? まだお会いした事は無いのですが」
「まあ、あれが理解出来るかどうかは分からんが、報告したっちゅう事実がまあ、要るからな。調子の良さそうな時を見計らえば大丈夫じゃろ」
「はあ、分かりました」
少し間の抜けた返事をし、カナメは軽く息をつく。シュウコには元々顔を合わせるつもりであった。本日のお手伝いは清水である。清水は確か、シュウコとは幼馴染みであったと聞く。ならば今日、面会に至れる可能性は大いにある筈だ。
他には何もしなくてもいいとは言われたものの、恐らく明日明後日は色々と忙しいに違い無い。それに、この家の雰囲気は少々苦手だ。──そろそろいとまを告げようとカナメが口を開きかけた、その時。
慌ただしい足音が廊下を駆け、そしてスパーンと、障子戸が目一杯開かれた。
「じっさま! じっさま! 話が違うやろ! 約束したやないか!」
荒い息を吐きながら叫んだのは、茶色く染めた髪を整髪料で立て、革のブルゾンに穴の開いたジーンズを着た、中肉中背の若い男だった。
日出男は礼儀知らずの乱入者をじろりと睨み、鼻を鳴らして吐き捨てる。
「何じゃい晴人、騒々しい。客が着とるんだ、静かにせんか。それに約束とは何だ、わしは約束なんぞした覚えは無いぞ」
晴人と呼ばれた青年はずかずかと畳を鳴らし、日出男の傍へと歩み寄った。正座をしたままのカナメを一瞥すると、胸倉を掴まんばかりに日出男に喰って掛かる。
「静宮のシズクとはワイが結婚するって話やったやろ! ワイはずっとそのつもりやったし、もうそれで決まっとるもんと思とった! ワイが静宮の婿に入って、照子がシグレを婿に貰う、そういう約束だったんちゃうんか!」
激情で伸びそうになる晴人の手をバチリと叩き、日出男は煩わしげに手を振った。
「あのな、晴人。それはいよいよ静宮に婿が見付からなかった時の最終手段だと要ったやろうが。そもそも静宮と井戸は関わりが濃うて、出来れば結婚はさせとう無いと前にも言うただろう。照子との事も決定ではなし、それに幸いな事に、静宮には婿が現れた」
その言葉に晴人と呼ばれた青年は、憎しみを湛えた目でカナメを睨み付けた。標的を変えるが如く、今度はカナメに歩み寄る。カナメの両肩を掴んだ晴人は、唾を飛ばしながら捲し立てた。
「なああんた、ほんまにシズクと結婚するんか!? 好き好んで瑞池に婿入りするとか、どんだけ物好きなんや! 今から考え直してくれへんか、結婚。なあ、ワイはシズクと結婚したいんや、頼む。シズクは子供も出来ん身体やし。それともあんた、そういう趣味──」
「──シズクさんを愚弄するのはやめて頂きたい」
真正面から晴人を見上げ、カナメは座ったまま晴人の両腕をがしりと掴む。思ったよりも強いその力に、晴人は情け無い悲鳴を上げて思わずカナメの肩から手を離した。
「ぎゃあ、痛い、やめ──」
カナメは無言のまま片膝を立て、そして立ち上がりざまにくるりと身体を回転させ──勢いそのままに晴人を投げ飛ばした。
ダァン、と重く小気味よい音が広い客間に響く。カナメが見下ろすと、まともに受け身を取れなかったらしい晴人は背中と頭を床にしたたかに打ち付け、白眼を剥いて気を失っていた。
息一つ乱さぬまま、カナメは座布団に座り直し日出男に頭を下げる。
「お孫さん……ですよね。すみません、つい……下限したので怪我は無いとは思いますが」
目の前の光景に唖然としていた日出男であったが、やがてくく、と笑いを漏らす。くく、ははは、あはははは! 日出男の笑いは次第に大きくなり、そしてひとしきり大口を開けて存分に笑った後にカナメを見遣った。
「あんた、カナエ・カナメと言ったか。気概がある上にどうやらしっかりと芯の通った男のようだな。歓迎する、これからも宜しゅうに」
「……恐れ入ります」
「ああ、孫の事は気にせんでええ。少々我が儘に育ってしもうたようでな、ええ薬になるだろうよ」
一通りの話を終えた後、さて、とカナメが立ち上がろうとすると、日出男がそれを手で制した。
「そういやあ、今日は最初から結婚の話をする為に来たんか? 他にも話があったんじゃないんかい?」
日出男の言葉にカナメは少し逡巡し、ゆっくりとかぶりを振った。
「確かに昨日の段階ではそのつもりでしたが……また日を改めさせて頂きます。そちらもお忙しいでしょうし」
「ちなみにどんな内容だ?」
「そのいう祭の事と、それから集落の運営などに関してお聞かせ頂ければと……。お手伝い出来る事もあるでしょうし」
そうか、と頷きながら日出男は再度言葉を発する。
「運営については、今はシグレ君に手伝うて貰うとるが、確かにあんたにも補佐して貰った方がええかも知れんな。シグレ君はいずれ静宮の家を出る身じゃし……。祭についても、纏めてその変は祝言の翌日にでも話をするっちゅう事でええか?」
「分かりました。では、そのように」
「ああ、何かあったら直ぐにわしに相談してくれ、悪いようにはせん。それに──もうあんたは瑞池の一員だ。瑞池の人間は結束が固いでな、仲間に何かあれば直ぐに助けてくれる。まあ、気楽にいくといい」
「……ありがとうございます」
カナメは丁寧に頭を下げ、そして今度こそ井戸宅を辞した。門を出て直ぐに、カナメの足許に走り寄って来る影が一つ。
「おや、安田さん。向かえに来てくれたのですか?」
安田さんはぺこりと頭を下げると、ぽてぽてとカナメの傍を歩き始めた。
集落には相変わらず霧雨が降っている。天井めいた灰色の雲が低く満ち、しかし薄く降る冬の陽光が家屋の屋根瓦を淡く照らしている。ぱらぱらと行き交う人々と挨拶を交わしながら、カナメは何処か落ち着かないざわざわとした気配を感じていた。
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