3-11


  *


「──カナメ様、まだ起きていらっしゃいますか……?」


 まんじりともせず布団の中で薄闇を睨んでいたカナメは、廊下を近付く微かな気配と衣擦れにそっと身を起こす。そして囁くように零れた問い掛けに、どうぞ、と応えた。すうと静かに開いた障子戸の向こうには予想通り──シズクの姿があった。


「寒いでしょう、早くこちらへ」


 頭を垂れたシズクにそう呼び掛けると、はい、と小さな声と共にシズクが布団の傍へと歩み寄る。その姿は昨夜と同じく長襦袢一枚で、カナメは密かに唾を飲み込み布団の上へと座り直した。


 シズクの表情は硬く、少し俯きながら何も言い出せずに唇を震わせている。カナメが何か言葉を掛けようとした時、シズクは決心したように顔を上げ、そしてすいと立ち上がった。


「カナメ様……あの、私の、──身体を、見て、……下さいまし」


 絞り出すような苦しげな声がほろほろと落ち、それに細帯を解くしゅるしゅるという音が重なる。それは、どういう──カナメが問おうとする前に緩んだ帯もろとも、白い襦袢はシズクの華奢な肩を滑り落ちた。


 ランプの柔らかな光だけが灯る薄闇の中、シズクの白い裸身が淡く浮かび上がる。


 その全身をカナメの瞳が捉え、そして理解した時──驚きに、息が詰まった。


「──っ、ぁ、」


 意味が、分からなかった。カナメの喉が声にならない音を上げる。


 桜の花弁の如き白い肌、細い首筋、孤を描く鎖骨。ささやかな、殆ど膨らみの無い胸。なだらかな腰、丸く小さな臍。そして無毛の滑らかな下腹部には──何も、無かった。


 いや、何も無いというのには語弊がある。肌とほぼ見分けが付かない程の傷が淡く盛り上がり、その中心には小さな穴があった。もっと奥にも傷はあり、つるりと滑らかな肌を見せていた。


 それは明らかに、女性の身体では無かった。


 その手術痕が明確に示すのは、即ち──陰茎と陰嚢の切除に他ならない。


「っ、……シズク、さん……?」


 カナメがようやく言葉を発すると、シズクは泣き笑いのような表情を浮かべ、やがて堪えていた涙をほろほろと零して膝を床に突き崩れ落ちた。両手の平で顔を覆って泣き始める。カナメはいたたまれずに、近寄ってその華奢な身体を抱き寄せた。


「私、……産まれた時には、男だったのです。戸籍は女となっておりますけれども、産まれて直ぐに病気が見付かって、男の部位を切除したのだと、そう父に聞いて、おりました」


 カナメの胸の中で泣きながら、シズクが嗚咽を漏らす。カナメは震える背をそっとさすりながら、シズクの言葉に耳を傾けた。


「不具の男よりは女として育った方が生き易かろうと、父はそう私に言いました。或いは父も真実を知らなかったのかも知れません、今となっては……確かめるべくも無いですが。ですけれど、今日たまたまあの書庫でひいお祖母様の書き付け帳を見付けてしまって……」


「そこに、……真実が、書かれていたのですね」


 ええ、と啜り上げながらシズクは続ける。


「この髪と目の色……ひいお祖母様も同じ色をしていたそうです。静宮の何代かに一人産まれるこの色を持つ女は、強い霊力を有しているのだと。しかし私は、男として産まれてしまったのです。巫女の力が無くては封印が弱まり、瑞池はまた水浸しに逆戻りしてしまう……そう考えたひいお祖母様は、私を女と、巫女とすべく手術をさせたのだと」


 ──何と残酷な。カナメの腕に知らず力が籠もる。


 しかしこれで、以前から抱いていた疑問にも合点がいった。──双子は基本、畜生腹として忌み嫌われ、しばしば迫害の対象となっていた。迷信深い田舎ならば尚更だろう。通常ならば片方を養子に出すなり、酷い場合には直ぐに殺し死産として扱う事すらある。


 しかし静宮の双子はどちらも欠ける事無く育てられた。状況から推察するに、先代の当主であるシズクの母が何らかの理由で子を産めなくなったからだろう。故に、二人共が生かされた。それは巫女としてのシズクと血筋を残す為のシグレ、二人共が必要となったからに他ならない。さもなくば、産まれた時にどちらかは亡き者にされていた筈だ。


「私は巫女となるべく、女として育てられました。巫女の儀式の作法、女としての立ち居振る舞い、礼儀や持て成しのいろは、お客様を接待する為の技術、伽の手管──。その全てを幼い私に詰め込んで、ひいお祖母様は役目は終わったとばかりに逝ってしまわれました。何もその意味を教えず、ただ瑞池に尽くせと、そう言い残して……」


 ほろほろと涙を流しながらシズクが顔を上げる。少し赤みを帯びたまなじりは艶を匂わせ、桜色の唇は濡れて震えていた。カナメはただ黙って、涙を拭ってやり背に流れる髪を梳き続ける。


「……私は、何も知らなければきっと、唯々諾々と従ったままで一生を終えたでしょう。儀式を粛々とこなし、客の伽をし、いずれ傀儡のような婿を押し付けられ、あにさまが誰かに産ませた子を育て、本当の事は何も知らされぬままに巫女としての役目に縛られ、何も疑わず朽ち果てる運命でした」


 声は震えている。叫び出したい程の感情が、息を詰まらせる。静かな慟哭めいて、芽生えた想いが口を突く。


「まるで贄です──生贄、生き人形、歯車……! ただ流されるままに、与えられた役目だけに努め、考えぬままに全てを受け入れて、集落の為と自分を殺して……! それは人じゃない、人間じゃない、そう、カナメ様が教えてくれたから──」


 だから、とシズクは笑った。泣きながら、カナメの胸に縋り付いて、不器用に笑った。


「私、ようやく気付きました、取り戻せました、血が通いました……! カナメ様に逢えたから、カナメ様が言って下さったから……。私、初めて恋というものを知ったのです。全てを諦めていた私の中に、初めて鼓動が生まれ、暖かな火が灯ったのです」


 くしゃりとまたほろほろと涙を零しながら、シズクはそれでも、カナメを見上げた。濡れた睫毛に縁取られた濃銀の瞳は薄闇の中で煌めき、カナメはその儚い美しさに胸を締め付けられる。


「──お慕い申しております、カナメ様。私の身体はこんなにも歪つで、沢山の人に穢されて、……このような私、拒絶されても文句は言えません。それでも伝える事だけはさせて下さいまし──愛しております、カナメ様」


 魂から湧き上がるが如き告白に、カナメは堪らず、シズクの華奢な身体をぎゅっと抱き締めた。瞳を閉じ、そして己れの胸に顔を埋めたシズクの耳許でそっと囁く。


「拒絶なぞしません。するものですか。──自分も好きです、愛していますシズクさん」


「……宜しいのですか? だって私、」


「自分を見くびらないで頂きたい。自分はシズクさんという人を好きになったのです。それが不具の身体であろうと、女でなかろうと、今更の話です。それにあなたは、こんなにも……綺麗ではありませんか」


「まあ、カナメ様ったら……」


 くすりと胸の中でシズクが笑う。言葉が振動となってカナメの胸を震わせる。カナメはシズクの肩口に顔を埋め、その香りを吸い込む。風呂上がりの湿度を含んだ髪はしっとりとし、シズクが身じろぐ度にさらさらとした肌の上を滑った。


 とくりとくりと高鳴る拍動が重なる。ねだるように顔を上げたシズクの唇に、そっとカナメはくちづけを落とした。しかしふと目に入ったシズクの白い肌に、シズクが何も纏っていない事を思い出し慌てて腕を解く。


「あの、その、寒くはありませんか、シズクさん。宜しければ、一緒に──」


 狼狽えるカナメの様子にシズクは笑み崩れ、是非、と頷いた。


「もう、カナメ様ったら……肝心な時に不器用ですよね。でも私、カナメ様のそういう所も好きなのですよ」


 自分より遥かに経験豊富らしきシズクに揶揄され、カナメは目を泳がせながら着ていた物を脱ぎ捨てる。では、と気を取り直し改めてシズクを抱きかかえ、一緒に布団へと潜り込むのだった。


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