3-10


  *


 カナメは咀嚼していた肉を嚥下すると、口を拭き手を綺麗に拭ってビールを呷る。そして溜息のように大きな息をつくと、卓に下ろしたグラスを握ったまま口を開いた。


「今日訪問した『子供寮』。あそこに住む子供達は毎日、充分な食事を与えられて学校に通い、望めば高校へも大学へも進学させて貰えるのだと聞きました。培われた集落の伝手で就職先も保証され、そうでなくとも集落で居れば農業なりなにがしかの仕事を与えられて……、集落という繭のような共同体の中で何不自由無く一生を終えられるのだと」


 カナメは再びビールを口に含む。隣に座るシズクは黙って中身の少なくなったグラスを黄金の液体で満たした。カナメはそれをちらりと見遣り、そして視線を伏せる。


「自分には、それが……どうしても、幸福とは思えないのです。先程言った話とは少し、矛盾しているかも知れませんが。その、酔っ払いの戯言とでも思って聞き流して下されば」


 琥珀めいた瞳を揺らし、カナメは自嘲するように薄く、笑んだ。


「──自分は一時期、孤児院に居た事があります。御師様に、アミダに引き取られるまでの数年を施設で過ごしました」


「……親御様が亡くなられたのですか」


「ええ。母は立ちんぼでした。戦争で家も家族も失い、親戚も消息が分からず、身一つの少女が一人で生きて行くには身体を売るしか術が無く……自分はそんな娼婦の私生児として生を受けました。当然、父親は分かりません。しかし幸いにも母は見た目が整っていたので、母子二人で生きていける程度には稼ぎがあったようです」


 シズクの息を飲む音が聞こえる。カナメは目を合わせぬままグラスを握り締め、言葉を続ける。


「けれどそんな生活を長く続けていける訳がありません。母は或る冬病気に掛かり、呆気なく亡くなりました。六つか七つの頃だったと思います。そして路上で暮らしていた自分は市場で食べ物を盗んだ際に捕まって保護され、施設へと送られる事になったのです」


 シズクは中瓶を握り締めたまま、息を詰めてカナメを真っ直ぐに見詰めていた。視線を避けるようにビールを呷ると、またカナメは口を開く。


「生い立ちがどこから漏れたのか、施設でも学校でもよく『パンパンの子』と言って虐められました。恐らく比較的ましな施設だったとは思うのですが、それでも職員から躾だ罰だと言ってよく折檻はされましたし、生命は守られてはいるものの尊厳は無いに等しい、辛い暮らしでした」


 その言葉は淡々と、しかし瞳は卓の一点を見詰めてカナメは語り続ける。


「そしてとうとう鬱屈が臨界点を超え、能力の暴発を起こし、自分は施設を追われる事となりました。──そして話を聞き付けたアミダに引き取られたのです。御師様は破天荒で、破戒坊主で、そして厳しい人でした。ですが自分の歪んだ精神を正し、虚ろだった心を取り戻させ、……人間に、してくれたのです」


 そこでようやく、カナメは視線を上げてシズクを見た。濃銀の瞳は揺れ、涙が零れそうな程に潤んでいる。堪えるように唇を噛み、ビール瓶を握る指は白く微かに震えていた。


「御師様は自分にこう言いました。──人は、考える生き物なのだと。自分で考え、選び、そして選択に責任をもって自分の足で歩むのが人間なのだと。確かに御師様は能力者だから自分を引き取った訳ですが、しかし将来の道は自分で選んで構わない、と言いました、縛られる必要は無いと。だから自分が今のこの仕事を選んだのは、自分の意思です」


 身体ごとシズクに向き直り、カナメは正面からシズクを見据えた。


「だから思うのです。──子供寮の子供達は、人間ですか。共同体に取り込まれ、選ぶ事を放棄してはいませんか。瑞池の人達は、本当に幸せなのですか……?」


 シズクの目からはほろほろと涙が零れた。嗚咽が漏れ、感情が溢れる。カナメはそんなシズクの手をそっと握り、慈しむように指先を包んだ。


「シズクさん、あなたは……もっと、自由に生きるべきです。背負わされたものの大きさに押し潰され、集落の為にその身を磨り減らして、ただ枯れるべきではありません。あなたが望むなら、諦めないと言うのなら……、自分が、手助けをします」


「カナメ、様──」


 堪えるように嗚咽がシズクを震わせる。あ、あ、と言葉にならない思いが零れる。涙の雫は頬を伝い、畳に落ちて音を立てた。崩れそうな身体にカナメが腕を伸ばし、そっと、抱き締めた。


「カナメ様、私、私──」


「大丈夫です、シズクさん。……辛い時には、辛いと言えば良いのです。皆、幸せになるべきなのです。誰かに皺寄せを押し付けて成り立つ幸せなど、あってはならないのです」


 大きな温かい手にとんとんと背を優しく叩かれ、シズクはカナメの胸に顔を埋め、幼子のようにしゃくり上げる。


 ──カナメはまだ、この瑞池に隠された恐ろしい真実に至ってはいない。それでも本能的に悟っていた、シズクが瑞池という機構に組み込まれた重要な『軸』なのだと。


 自分が、シズクを救い出す。──そう、カナメは心の中で確固たる意志を口にする。


 泣き続けるシズクの背を撫でながら、カナメはその華奢な身体をただ、抱き締めたのだった。


  *


 食事を終え、カナメはゆっくりと風呂に入る。温かな湯に身体を浸すと血が巡り、汗と共に酒気が抜けていくのを実感する。


 ──自分の生い立ちを人に語ったのは久し振りだった。アミダは当然知っているとしても、弟弟子にすら明かしてはいない。シズキと将来を誓い合った際に告げたのが最後だったろうか。


 少し酔っていた所為だ、と僅かに自嘲してふうと大きく息をつく。


 シズクへの感情は自覚しているし、勢いで流されないよう押し留めているつもりだが、時を追う毎に抑え切れなくなっている。あんな子供のように泣きじゃくる姿を見せられたら自制も利かなくなるというものだ。


 もし今考えている計画をシズクに明かしたならば、自分はどうなってしまうのだろうか。何も鴨を投げ出してシズクを連れ去りたい、そんな風にはなってしまわないだろうか。──カナメはぼんやりと考え、いや、と自分の考えを否定した。


 恐らくそれではシズクは本当には幸せになれない。遠く逃げたとて、きっとシズクは何処か心の奥底が瑞池に囚われたままになってしまうだろう。やはり、シズクを本当に幸せにしたいのならば、この瑞池の秘密を解き明かし解決に導く必要があるのだ。


 そこまで思案し、カナメはばしゃりと茹で顔を流す。前髪が乱れ、湯の飛沫がぱちゃりと音を立てる。まだ先は長いのだ。気を引き締めねば、と自分に活を入れる。


 そう言えば、今日は子供寮に出掛けて以降、安田さんの姿を見ていない。出掛ける際にはストーブの前で丸くなっていたが、夜に静宮邸に帰り着いた時にはその姿は無くなっていた。静宮邸で飼っているという訳では無いようなので居なくとも不思議な事は無いのだが、それでも頻繁に一緒に居る身としては少し気になるところだ。


 再度溜息を吐いてから湯船を上がり、手早く身を清めて風呂を出た。脱衣所の籠には大きめのバスタオルと着替えが入っている。初日の晩は持参した浴衣を寝間着として身に着けたが、昨日今日は静宮邸で用意された男物の浴衣が置かれている。至れり尽くせりの待遇にカナメは少し苦笑を漏らした。


 しんと冷えた廊下を通り客間へと戻ると、暖められた室内にほっと息をつく。卓上にはきちんと水の入れ替えられた水差しと伏せたコップが置かれ、灰皿の吸い殻は綺麗に掃除されていた。恐らくこれもシズクがやっているのだろう。行き届いた旅館の如き心配りに、感謝と共に少しの申し訳無さを覚えた。


 水を飲み、煙草に火を点ける。ゆっくりと流れる紫煙を眺めながら、カナメは足を崩し頬杖を突く。心に浮かぶのはどうしてもシズクの姿だ。潤んだ瞳、華奢な肩、髪の香り──。


 予感めいた物を覚え、カナメは心を鈍化させるように深く煙草を吸い込んだ。吐き出した煙は細く長く、緩やかに宙を漂う。短くなった煙草を揉み消すと、ちりちりと火種が熱を失ってゆく。


 カナメはその一部始終を眺めてから、再度水を干した。そしておもむろに立ち上がり、照明を消すと寝室へと移動する。


 ──ままよ。


 ランプの明かりだけを灯し、予感を胸に抱いたまま、カナメは布団へと潜り込んだ。


  *

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