3-09


  *


 ──不意にビチ、と音がした。


 カナメが音にびくり肩を振るわせ視線を上げると、フロント硝子に何やら黒く小さな物が張り付いている。次いでまたビチ、ビチ、と複数の影が硝子に姿を増やした。


「……ひ、」


 目を凝らすとそれはイモリであった。赤黒い腹を見せ、何匹ものイモリがへばり付いている。またビチビチと音がしてイモリが増えてゆく。隣からチッと大きく舌打ちが響き、柿峰が流れるような動作でレバーを動かした。


「瑞池のイモリだよ。……警告のつもりなんだろうな。こいつらはいつも何処からともなく現れる、ただのイモリとは思えないね。子供寮にも住み着いてる、監視でもしてるんだろう。……こんな事言うと頭がおかしいと思われるかも知れないが、そうとしか私には思えなくてね」


 ワイパーが動き始め、二つの棒が孤を描いてフロントを舐めてゆく。イモリは数匹が撥ね除けられたものの、残る十数匹は素早く移動してワイパーの届かない上方で張り付いたままだ。


「いえ、……自分もイモリには何度も遭遇しました。先生がそう思う気持ち、分かります」


「ありがとう。糞、奴等それ以上喋るなとでも言いたいんだろうな。分かってるさ、……すまないなカナエ君、話題を変えようか」


「そう、ですね……」


 諦めたように柿峰はワイパーを停止させる。それ以上イモリは増えず、邪魔にならない程度の場所でもぞもぞと蠢いている。二人は同時に、細く長く息を吐いた。


 それから柿峰は瑞池との事について何も喋らなかった。カナメも無理に聞き出そうとは思わなかった。イモリが一体どんな存在なのかは不明だが、こちらは狭い山道を運転中なのだ。万一何らかの攻撃をされてきたら堪ったものではない。急な曲がり道で突然照明を壊されでもしたら、二人共無事では済まないだろう。


 白々しく無難な会話を交わしながら、車は山道を順調に進んでゆく。柿峰にとっては慣れた道程だからだろうか、以前一時間程掛かると聞いていた道を白いブルーバードはカナメの予想よりも早く走破した。


 車は瑞池に入り真っ直ぐに静宮邸を目指した。外灯の少ない暗闇に家々の明かりが浮かんでいる。やがてぐるりと塀を回り、柿峰の運転する車は静宮邸の門前に滑り込む。


「ああ、お帰りなさいませ、カナメ様!」


 停車すると同時、門に灯された照明にシズクの姿が浮かび上がる。カナメは車を降りると笑顔を作り頭を下げた。


「ただいま帰りました、シズクさん。少し遅くなりましたが、柿峰先生が往診のついでにと送って下さったんです」


 柿峰もエンジンを掛けたまま車を降り、カナメの隣に並んで軽く礼をした。まあ、とシズクは微笑んで柿峰に丁寧に頭を下げる。


「それはそれは……ありがとうございました、柿峰先生」


「いや、往診のついでだったからね。それにいつもとは違う感じの客人が来ていると聞いて、話してみたかったというのもあったんだ」


「本当にありがとうございました、助かりました」


 薄い笑みを浮かべながら眼鏡を押し上げる柿峰に、カナメは改めて礼を述べる。気にしないでくれたまえ、と柿峰は手を振り運転席へと歩み寄った。


 一瞬、カナメと柿峰の視線がフロント硝子を捉える。瑞池に入るまではそこには十匹を超える数のイモリが確かに張り付いていた筈だ。しかしいつの間に逃げたのか、もうイモリの姿は影も形も無かった。


「それじゃ私はそろそろ行くよ、滝本のお婆さんに調子が悪いって呼ばれてるんでね」


 運転席に乗り込むとバタンと扉を閉め、柿峰は軽く片手を挙げて二度、クラクションを鳴らす。揃って頭を下げるカナメとシズクの前でゆっくりと車が動き出す。走り去る白い車を見送り、その姿が闇に消えると二人は顔を見合わせた。


「暗くなってもなかなか戻って来ないので、心配していたのですよ」


「すみません、子供寮で電話を借りれば良かったですね」


「本当です。……もう戻って来て下さらないのかと気を揉んでおりました」


 申し訳無さそうに謝るカナメを見上げ、少し拗ねたような口調のシズクはそれでも直ぐに相貌を崩した。


「でも無事戻って来て下さって嬉しいです、カナメ様。──さあ、早く上がって下さいまし。落ち着いたら直ぐに食事の用意を致しますので」


「それは楽しみです。おやつのたこやきドーナツも美味しかったですが、夕食には何が出るのかと期待していたのですよ」


 言葉を交わしながら二人は玄関へと入ってゆく。暖かな光が届かぬ闇の中でちろりと何かが動いた気がしたが、カナメは見ぬ振りをして屋敷にその身を滑り込ませたのだった。


  *


「これはまた豪勢な……」


 暖かな客間の中、座卓の上には幾皿もの料理が並ぶ。


 たっぷりと鶏がらの出汁を拭くんだ根菜の透明なスープ、鶏そぼろのあんが掛かった蕪や南瓜の煮物、あられの衣をまぶしからりと揚げた手羽の竜田揚げ、濃厚な味付けの鶏レバーの生姜煮、鶏皮と軟骨の南蛮漬け……。そして極め付けは、骨付きの鶏腿肉の照り焼きである。


 鶏尽くしの豪華な料理に、カナメは感嘆の溜息を漏らした。隣では満面の笑みのシズクが瓶ビールの栓をポン、と小気味よく開けたところである。


「さあさ、どうぞカナメ様。まずは一杯如何ですか? 今日は動き詰めでいらしたので、さぞお疲れになったでしょう」


「ありがとうございます。では遠慮無く頂きます」


 差し出されたグラスを受け取り、トクトクと注がれたビールに口を付ける。こくこくと喉を鳴らし一気に半分程を干すと、はあっとカナメは大きく息をついた。継ぎ足された泡を再度啜ると、心地良さにまた一気に半分程を呷った。


 ビールも美味いが料理も気になる。カナメは今度はいただきますと箸を取ると、早速スープから手を付け始めた。


「これは……味付けは素朴なのに、何とも味わい深い。野菜が出汁を含んで噛むと溢れるさまが堪りませんね」


「沸騰させないよう気を付けながら、朝からずっとことことと煮出したものなんですよ。鶏がらは煮立たせると白く濁ってしまうのです。今日は上手くいって良かったです」


 シズクの言葉に成る程と頷きながら、今度はレバーの生姜煮に箸を向ける。甘辛い味と共に生姜を利かせたそれは、新鮮さとも相まって全く臭みが無い。そぼろあんかけや南蛮漬けも絶品だ。手羽揚げは衣がさくさくとして、味のみならず食感でも口を楽しませてくれる。


 合間にビールをぐっと飲み干し、さて、とカナメは骨付きの照り焼きをどうしたものかと逡巡する。その様子に見かねたシズクがくすくすと笑いながら助け船を出した。


「カナメ様、気にせず直接手で持ってお召し上がり下さい。お箸では食べにくいでしょう? 大丈夫です、ちゃあんとお手拭きも用意してありますし、何より此処には今、私とカナメ様しかおりません」


 笑顔で見上げるシズクを見遣り、カナメは箸を置いてはは、と笑った。


「行儀が悪いかと思いまして」


「お気になさらないで下さいまし。こういうものは豪快なぐらいが丁度良いのですよ」


「では、失礼して──」


 カナメは意を決し両手で腿肉を皿から取り上げると、たっぷりと肉の付いたそれに、がぶりと勢い良くかぶり付いた。皮部分はたれを絡めるだけで無く炙ってもいるのかパリパリとして香ばしく、身からはじゅわりと肉の濃厚なうまみが溢れる。


「これは……凄いですね、美味しいです。美味しいとしか言いようが無い」


 肉を一旦皿に置くと、カナメは手を拭いグラスを呷る。ビールと腿焼きとの相性は最高で、知らずはあと大きな息が漏れる。


「幸せですね。美味しい三度の食事に晩酌、お茶におやつ……。お腹一杯の美味しい食事を食べられるというのは、本当に幸せな事だと思います」


 カナメの琥珀めいた瞳が満足げに細まる。シズクは差し出された空いたグラスにビールを注ぎながら、はにかむように呟いた。


「此処に居て下さる限り、ずっと美味しいお食事を用意させて頂きます。毎日こんなに豪華にとはいきませんが、それでも精一杯のお料理を出させて頂きます。カナメ様さえ良ければ、ずっと此処に居て下さっても……」


「……シズクさん」


 視線を逸らすシズクの顔は耳まで赤く、カナメの拍動が高まる。誤魔化すようにグラスを呷り、そしてカナメはまた腿肉にかぶり付いた。


 思わず返事をしそうになる自分自身をカナメはぐっと制した。酩酊する程ではないものの、少なくとも酔いが回っているのは事実だった。こんな状態で軽々しく返していい内容ではない──馬鹿正直と紙一重の実直さが、そう自分を律するのだった。


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