2-07


  *


「結界、……でございますか!?」


 驚くシズクに大きく頷き、カナメが慎重に指先を出す。途端に、またバチリ、と電流めいた火花が散る。


「私には何もありませんのに。カナエ様だけに、そのような……? 一体誰が」


 思わずといった風に伸ばされたシズクの手から逃げるように、カナメは首を振りそっと腕を下ろす。少し傷んだ指先を見られたならば、きっとシズクはその傷以上に心を傷めるだろう事は明白だった。


「結界を張ったのは恐らく過去の巫女の誰かだと思われます。シズクさんは現在の当主代理、巫女の一族だから大丈夫なのでしょう。この結界が何処までの者を弾くのかは不明ですが、少なくとも自分が部屋に入られない事は確かですね」


「で、では、どう致しましょう。どうすれば宜しいですか?」


「そうですね、幾つか試して頂きたく……」


 そこでカナメとシズクは計を案じる。部屋の中に在る書類を外へと持ち出せないか、それが駄目ならば敷居を挟んで書類の中身を外のカナメに見せられないか。また、中からシズクが読み上げたものを聞き取れないか、シズクが他の紙に書き写したものを持ち出せないかなど……。


 ──結果は、いずれも不可能であった。


 住民に掛けられた呪いが、言葉だけでなく筆談なども不可能であり『伝える』事そのものが禁止されていたのと同様、この部屋の中にある書類の中身を持ち出す事それ自体が禁止されているのだろう。


 辛うじて可能だったのは、シズク本人が書類を読み中身を理解し、シズク自身の言葉で伝える事であった。シズクは巫女の力を有しており、恐らくはシズク自身には結界や呪いの力は作動していないのだ。それが分かった事そのものは不幸中の幸いとも言えるが、膨大な資料の中から必要な部分だけを的確に抜き出し記憶して伝えるというのは、かなりの負担を強いる行為だ。


「私、頑張りますので、やらせて頂けませんか……?」


 強い意志を宿した灰色の瞳に、しかしカナメは首を縦には振らなかった。余りにもシズクのみに苦行を追わせる行為であり、それならばその時間を使って他にやれる事もある筈だ。それに身体の弱いシズクの体調も心配である。


 それでも一歩も引かぬシズクの気概を尊重し、カナメが幾らか譲歩する形で決着する事となった。


「絶対に無理はしないで下さい。根を詰め過ぎない事、疲れを感じたら直ぐに止める事。普段の生活を疎かにしない程度、空いた時間でのみ行って下さい。自分はシズクさんに無茶をして頂きたくはないのです、約束して頂けますか?」


「分かりました、無理は致しません。お約束、致します」


 そしてシズクはそっと小指を差し出した。白く美しい指の先に、形良く磨かれた爪が淡く光る。その意図を察し、カナメもおずおずと右手を差し出した。伸ばされた小指に、シズクの指が絡む。


「指切りげんまん、嘘付いたら針千本飲ーます、指切った」


「指切った」


 涼やかな声が契りを歌い、低く響く声がそれを結ぶ。何処か離れがたい指が、そっとほどかれる。


 悪戯っぽく笑うシズクの瞳が見上げ、琥珀の眼がそれを受け留める。指切りなぞ交わしたのは何年ぶりだろう、とカナメは笑う。


 扉を閉じて鍵を掛け、二人はまた廊下を進み始める。


「此処がこのような様子ならば、離れは更に期待が持てませんけれど……一応、試しておきましょうか。無駄足でしたら申し訳ございません」


「万が一という言葉もあります。可能性があるのなら、試してみる価値はありますよ」


 いつの間に降り出したのか、掃き出し窓から見える裏庭は霧雨でしっとりと湿っている。空を覆う雲は夕陽に灼けて朱色を映し、不可思議な紋様を描き出す。赤みを孕んだ薄暗がりの中、先を歩むシズクのうなじだけが白く仄かに、輝いて見えた。


  *


 はあっ、と溜息と共に紫煙が吐き出される。


 ──離れの倉庫、いやあれは蔵と呼ぶべきだろう。渡り廊下を進んだ先にあるそこは、明らかに他人を拒絶していた。万に一つも有り得ない、とカナメは自分が吐いた言葉を早々に撤回した。


 結果は言うまでも無く、カナメは扉に近寄ろうとするだけで激しい痛みに襲われた。凝った闇が入り口を覆い、中をちらと窺う事すら適わない。相変わらずシズクはすんなり中へと入る事が出来、しばらく探索した挙げ句に溜息をついて戻って来た次第だ。


 どうやら物が多過ぎて、何が重要な物なのかが全く分からないらしい。少なくとも軽く見た限りでは手掛かりになりそうな物は見付からなかったようだ。あれだけ厳重に結界を張っているのだから何かしらはあるのだろうが、木を隠すなら森、といった風に大量のがらくたに紛れさせている可能性は高そうである。


 書類部屋とは違い、蔵から物は持ち出す事は出来るようだが、シズクに一々物品を運び出させるのは非効率にも程がある。こうなるともう手詰まりだ。少なくとも今は、蔵の調査は諦めざるを得ないだろう。


 思ったより時間が経っていた事もあり、本日の調査はここまでと二人は解散し──今に至る、という訳だった。


 天井を仰ぎつつカナメは紫煙を吐く。行儀悪く立て膝で寛ぎながら、どうしたものか、とぼんやりと思案する。思ったよりも一筋縄とはいかない瑞池の謎に、また一つ溜息を零す。


 ──取り敢えず明日は沢田に話を聞き、それから集落の事実上の代表とされている家を訪ねるべきだな、と短くなった煙草を揉み消した。出来ればゆっくりと集落の中も巡り、変わった事が無いか自身の眼で確かめたい。可能ならば一度山を越え、『子供寮』も調べてみた方が良いだろう。


 考える事、やるべき事は山積みで、しかし幾ら動こうとも空振りばかりで嫌になる。カナメが再び煙草に火を点け吸い込むと、ちり、と火種が朱く明るく燃えて、ゆらりまた煙が筋となって立ち昇る。


「結界か──」


 実のところ、無理にでも結界を壊してしまう事は可能だ。しかしそれには物理的な破壊が伴う。部屋の扉や壁の一部程度で済めば良い方で、最悪、部屋そのものが崩壊しかねないのだ。故にカナメは、そのような方法は最後の最後、最終手段としてしか考えていなかった。


 しかし一事が万事この調子ならば、その考えも改めなければならないのかも知れない。


 時計はもう直ぐ七時を示そうとしている。今日のお夕飯は期待して下さいませ、というシズクの言葉を思い出し、少しだけ気分が上向く。煙草を消し卓の上を片付けていると、程無く声が掛かった。


「お待たせ致しました、カナエ様。お夕飯をお持ち致しました」


 シズクの笑顔と共に、ふわ、と食欲をそそる良い匂いが流れ込んで来る。炙ったような香ばしい香り、濃厚なたれと生姜の匂い。炊き立ての白米や汁物の出汁がそれらに花を添える。


 配膳されてゆく食事にカナメは目を奪われた。くう、と小さく鳴った腹に、初めて自分が空腹なのだと気付かされる。


「ご用意出来ました。さあ、どうぞお召し上がり下さいませ」


 促されるままにカナメは箸を取る。いつの間にか隣に座ったシズクが、ぽん、と瓶ビールの栓を抜く。無言で手渡されたグラスを握ると、とくとくとく、とよく冷えたビールが注がれる。白い泡と黄金の見事な比率に、思わず一気にグラスを呷る。


 ちりちりと走る喉越しに、カナメの疲れが吹き飛ぶ。


 はあ、と干したグラスに再びビールが注がれ、推しに弱い自身を自覚しながらも、カナメは杯に口を付ける。


 ちらと見遣ったシズクの笑みはとてもあでやかで──少し正気に戻ったカナメは、間違っても酔わないようグラスを一旦卓に置く。そして誤魔化すように、料理に箸を付け始めるのだった。


  *

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