2-08


  *


 本日の夕げの主菜は鶏肉を焼いたもののようだ。一度蒸したものを炙って仕上げたのか、断面はふわり白く柔らかで、反して皮目はパリッとしてこんがりと良い焼き目が付いている。一切れ口に運ぶと、味付けは塩のみながら、鶏本来の滋味が噛み締める毎に溢れ出る。


「これはとても美味しいですね。──おや、こちらはもしかして……」


 カナメの箸が次に向かった先に、シズクがふわり笑んで解説を加える。


「ええ、この辺りではたまひもと呼んでおります。正式にはきんかんという名なのだとか。肝と一緒に、生姜を利かせて甘辛く煮付けてあります」


「という事は、わざわざ鶏を一羽潰して下さったのですか? なんて贅沢な」


「カナエ様は大事なお客様ですので……。ささ、ご遠慮なさらず」


 それは一見、卵の黄身のように見える。しかしその大きさは不揃いで、普通の卵の黄身より一回り大きなものから、小指の先より小さなものまで様々だ。甘辛い味付けのそれは表面がつるりと固く弾力があり、噛むと詰まった身が割れて濃厚な味わいをもたらすのだ。


 ──きんかん、それはまだ廃鶏となっていない雌鶏を潰した時のみに得られる、体内に残った『卵にまだなっていない卵の元』である。ふるふるとしたそれは炊くと真ん丸になり、黄身と白身の混じったような味わいと食感を呈する。濃く甘辛い味付けで一緒に肝を煮込む事が多く、臭み取りには刻んだり下ろしたりした生姜が使われる。


「これはなんて珍しい。なかなか食べる機会が無いものだから、よく味わって食べないと」


「ふふ、清水さんは鶏をさばくのがとても上手なのですよ。私がやるとどうしても上手く出来なくて……」


「魚でも大変なのに、鶏ともなるとそれは難しいものですよ、仕方が無いです。ああいうのは慣れが肝要ですので、場数を踏んでいけばそのうち上手にやれるようになりますよ」


「そういうものですか。じゃあ私、もっと頑張らないといけませんね。──ああ、グラスが空です。ささ、もう一杯如何です?」


 手間の掛かった美味な料理に思わずビールが進む。いかんな、と思いつつもカナメはぐいと杯を干す。まあ中瓶二本や三本で酔い潰れる事も無かろうと、滑らかな泡を飲み下した。


 他にもカリカリになるまで焼いて酢醤油で大根と和えた皮や、衣に味を付けて揚げた砂肝と軟骨など、堪能するうちにカナメはすっかりと上機嫌になっていた。ほろ酔い気分で汁を啜り、締めにと塩揉みの胡瓜で白い飯を平らげる。


 ふう、と息をつき、御馳走様でしたと箸を置く。そしてカナメは少しの逡巡の後、隣に座るシズクにそっと向き直った。


「大層美味しゅうございました。しかし身に余るこのような過分な持て成し、大変恐縮で……」


「いいえ、カナエ様。そのような事仰らないで下さいまし。私がやりたくてしている事です。カナエ様がそのようにお思いになる必要はございません」


「しかし……」


 尚も言い募ろうとするカナメの手を取り、シズクは華奢な手でそっと握った。シズクの肌は相変わらずひんやりとして、カナメは胸の内にまた切なさが燻るのを自覚する。


「カナエ様は私の希望なのです。カナエ様が喜んで下さるならば、私、何でも致します。お望みならば、どのような事でも」


「シズクさん、そのような」


 銀細工にも似た、伏した睫毛がふるり震える。桜色の唇は何かを紡ごうとするも黙したままで、きゅ、と力の籠もる指のみが雄弁だった。カナメは白い指先を自らの手で包み直すと、祈るようにそっと囁いた。


「気負わないで下さい、シズクさん。自分はあなたを必ず救います。あなたからの対価など不要です。自分はそんな物は求めていません。だからどうか、自分があなたの負担になるような事だけは、やめて下さい」


「カナ、……エ、さま」


「約束です。何ならもう一度、指切りしますか?」


 ふるふるとシズクが首を振る。その頬は赤く染まり、瞳はじわり潤んでいた。するりと手の内から抜け出す指が名残惜しく、カナメは諦めを交え薄く微笑んだ。


「カナエ様はずるいです。そんなだから、私──」


 ほろりと呟きを零すと、シズクは拗ねたように唇を引き結んで食器を片付け始める。カナメが手伝うとそれはあっという間に終わり、残念に思いながらもカナメは退室するシズクの姿から目を逸らす。


 ぴしゃり、閉じられた障子戸の向こうで静かな足音が小さく鳴る。カナメははあっと大きく息をつくと、不甲斐ない自分に憤り頭を抱えた。


 水差しから注いだ水を嚥下し息をつくと、もうすっかり馴染んだ灰皿を引き寄せる。零れる葉を自棄気味に詰めて火を点けた。


 紫煙はいつもゆったりと流れる。すっかりと見慣れた天井を仰ぎながら、カナメはまた煙と共に溜息を吐き出したのだった。


  *


 白く煙る空気の中、はああ、とカナメは息をつく。


 ──静宮邸の風呂は大きい。元々は客人用と、家族や使用人が使う小さめのものと二箇所あるようだが、余程の事が無い限りはどちらかしか使わないらしかった。今現在はカナメという客人が居る為に大きな方の風呂を沸かし、家族もそちらに入っていると聞いた。


 昔ながらの石造りの洗い場にはすのこが敷かれ、タイル貼りの壁には高い位置に窓が一つ。檜を使っているらしき湯船は、上背のあるカナメでもゆったりと身体を伸ばせる大きさだ。掃除の良く行き届いた浴室は清潔で、湯の温度も丁度良い加減である。


 ガス式の風呂釜などは無く、未だに薪で沸かす方式だという。台所のお勝手を出て直ぐに焚き口があるらしく、清水か沢田が熱くなるまで薪を燃やし、後は追い焚きなどはせず台所から引いた給湯器の湯水で調整するようだ。


 心地良い湯加減にカナメはまた息を吐く。さほど状況に進展は無くとも身体は疲れているようで、凝りが解れていくさまを実感する。昨夜は色々あって長湯は控えたが、今日はのんびりさせて貰おう、とばしゃり肩まで湯に浸かる。


 さてそろそろ──と身体を起こそうとした瞬間、靄の向こうに何かを感じた。


 これは、覚えがある。未明に感じたのと同じ、嫌な気配だ。せっかく機嫌良く風呂を楽しんでいた所に水を差され、眉を顰め気配のある辺りを凝視する。


 やはり、窓の傍にイモリが居た。


 黒い気を纏うイモリをどうしたものかと見上げる。手桶で湯を掬って掛けようとしても届かない可能性が高そうだ。無視してやり過ごすか、と諦めて眼を閉じたが、やはり気になって落ち着かない。


 窓の外はもうすっかりと宵闇に染められている。家にはシズクと、それから既にシグレが帰宅している筈だが、どちらも呼び付ける気にはなれなかった。今のこの状況でシズクを呼ぶのは論外であるし、シグレにイモリ一匹で騒ぎ立てる男だと思われるのも癪に障る。


 ここは諦めて、風呂を出た後でシズクにでも言伝るのが妥当な所だろう──そうカナメが結論付けて湯船を出ようとした、その時だった。


 がたり、と窓が、揺らされたのは──。


  *

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