2-06


  *


 失礼します、と俯くように頭を垂れながらシズクが姿を見せる。カナメは何と声を掛けて良いか分からずに、会釈だけを返しシズクを迎え入れた。


 ふわり、──途端に良い香りが客間に広がる。


「珈琲、──ですか」


 静宮家で供される茶は日本茶ばかりと思い込んでいたカナメは、意表を突かれシズクの運んで来た盆を穴が開く程に見詰めた。モダンな蔦の意匠が施された黒地に金の盆の上には、湯気の立つ二組の珈琲カップにミルクや砂糖壺、そして小振りなドーナツの載った皿が並んでいる。


「もしかしてお嫌いでしたか、珈琲」


「いいえ、むしろ好物です」


「ふふ、それなら──良うございました」


 茶器を並べ追えたシズクがふわりと微笑んだ。その表情に、わだかまっていたカナメの心が一瞬で解けてゆく。ほんのりと赤い目許は涙の痕なのだろうが、それさえもカナメにとってはあでやかにすら思えた。


 しかし、おや、とカナメは卓の上の光景に釘付けになった。向かいに座ったシズクの前にもカップと皿が並べられているのだ。視線を上げると、悪戯っぽく笑むシズクと目が合った。


「今日は私もご一緒したいと思いまして。宜しかったでしょうか?」


「勿論。喜んで」


「ありがとうございます。それでは──どうぞ、お召し上がり下さい。ミルクと砂糖もありますので、お好みで」


「ああ、自分はブラックのままが好みなので、このままで。では、いただきます」


 カナメはそっと珈琲の満たされたカップに手を伸ばす。豊かな香りの立つ珈琲を引き立てるのは、深い瑠璃色に金で模様が施されたカップとソーサーだ。優美な曲線と細かい細工で飾られたそれはしっくりと手に馴染み、唇に触れる滑らかさが心地良い。


 含んだ熱い珈琲は酸味が少なく苦みとこくが深いもので、カナメの好みに合う味をしていた。ゆっくりと味わってからカップをソーサーに戻すと、シズクが砂糖を少しとミルクをたっぷり入れ追えたところを目撃してしまい、思わず笑みが漏れる。


「もう、笑わないで下さいまし! 私、あまり苦いのは苦手なのです」


「いや失敬。余りにも可愛らしいと思ってしまいまして」


「かわ……、いやだ、からかわないで下さいまし、カナエ様ったら!」


 赤くなった頬を手で覆うシズクの仕草に、堪らずカナメは噴き出した。はは、と零れる笑いに、シズクは恥ずかしげに視線を逸らし珈琲を啜る。


「ドーナツも私が作ったのですが、その、お口に合えばいいのですけれど」


「シズクさんは料理がお得意なのですね」


「それ程でもございません。まだまだ修行中の身で、清水さんに鍛えて頂いている最中なのです」


 ドーナツの載った皿もカップと同じ系統の物なのだろう、瑠璃に金の模様が滑らかな肌に映えている。見ればミルクポットや砂糖壺も同様で、それに合わせたのであろう金色のスプーンとフォークは瑠璃色の七宝が施されたものだ。


「ではこちらも、遠慮無く」


 カナメはフォークで切り分けたドーナツを口に運ぶ。まだ温かいそれは香ばしい油の匂いを纏い、頬張ると意外と固く詰まった生地と表面にまぶされたざらめが、何処か懐かしさを呼び起こす。珈琲を啜ると舌の上のドーナツはほろほろと崩れ、溶けたざらめの甘さが口一杯に広がった。


 ──ああ、これは『母』の味だ。家で作るドーナツの味だ。カナメは郷愁めいた寂しさと失った筈の温かさに襲われ、ふ、と薄く微笑む。


「とても美味しいです。……とても、懐かしい味がします」


「懐かしい、ですか?」


「ええ。昔、母が作ってくれたドーナツの味に似ている気がして。──もう母は居ないし、はっきりと覚えている訳ではないのですが」


「そう、……ですか」


 何処か遠くを見たままのカナメの言葉に、シズクは深く聞き返す事はせず、ただ静かに同じ時間を共有する。


 珈琲の香りがただ柔らかに、ただ優しく二人を包んでいた。


  *


 珈琲とドーナツを堪能し一息ついた後、シズクは早速カナメを屋敷の奥へと案内する。


「南の庭に面した側は客間や広間がありますが、中央の廊下を挟んで北側の奥には、家族の私室や物置なんかがあるのですよ」


 ちなみに北側の手前には台所や風呂を始めとする水回りが固まって設置されている。カナメは頷きながら案内されるままシズクの後を追った。


 幾つかの部屋を通り過ぎようやく辿り着いたそこは、何の変哲も無い引き戸の前であった。簡素な木の扉は何処か薄汚れ、不穏な空気を纏っているかのように見える。


「此処が、そうなのですね?」


「ええ。過去の当主──代々の巫女の遺品、特に蔵書や手紙、書類や日記など、紙の類が此処に纏めて収められています」


「……とすると、紙の類以外の物は別の場所にあるのですね?」


「はい、それは離れにございます。そちらもご覧になりますか?」


「あ、いや。そちらはまたの機会で……取り敢えず今はこの部屋を調べる事にしましょう」


「了解致しました。……それでは、開けますね」


 シズクが袂から装飾の施された鍵を取り出し、引き戸の真ん中に設置されている鍵穴にそれを差し込んだ。慎重に回すと、かちり、と小さな音が鳴る。そろそろとシズクが引き戸を滑らせると、さほど音も立てず意外と滑らかに扉は開いた。


 廊下からの明かりがあっても尚、部屋の中は昏い。幾つもの書棚があるようだが、その大半は闇に沈んでいる。シズクが引き戸の傍の壁をまさぐり、あった、と小さな声を上げた。


「電気、点けますね」


 ぱちりという音と共に、ちかちかと瞬いた電灯が部屋を照らす。そう広くはない板間だ。天井に届く程に背の高い書棚が壁を埋め尽くし、更に部屋を幾つも煮区切るが如く林立しているさまは、圧迫感にも似た物を見る者に与える。


「これは、……結構凄い量ですね」


 部屋の雰囲気に圧倒されてカナメが怯んだ声を零すと、そうでもないですよ、とシズクは首を振った。


「収められているものは年代毎に順番に整理されておりますし、実は見た目程には詰まってはいないのです。……それでは、どの辺りから始めますか?」


「そうですか。では、一番古いものから当たってみましょう」


「はい。では、こちらですね」


 部屋の奥へと身を滑り込ませたシズクを追い、カナメも部屋に足を踏み入れようとした、刹那。


 ──バチリッ!


「っ、……あ」


 突然、激しい痛みがカナメを襲う。電流が走るような痺れがぴりぴりと肌を灼く。


「これは……」


 再度、慎重に差し出した指にバチリと痛みが走る。


「カナエ様、どうされました……?」


 カナメが付いて来ない事を不審に思ったのであろう、シズクが入り口へと舞い戻って来た。心配げなシズクの表情を見下ろしながら、カナメは力無く苦笑を浮かべる。


「どうやら、自分はこのお屋敷に招かれざる客だと思われているようです」


「え……それは、どういう……」


 首を傾げるシズクに、カナメは入り口擦れ擦れの所で手を振って見せる。


「自分はこの部屋には入る事が出来ません。──結界が、張られています」


  *

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