2-04


  *


 己の下らない連想を心の中で否定し、カナメは冷静さを取り戻すかのように一旦静かに息を吐く。無意識に外していた視線をシズクに向けると、そのまま真っ直ぐに切り出した。


「話というのは二つありまして、その……まず一つ目ですが、この家に古い本などを纏めて置いてある部屋などがあれば、そこを調べさせて欲しいのです」


 カナメの申し出に小首を傾げ、シズクが問い返す。


「本、でございますか。それは、いわゆる普通に本屋さんで売られている本、という意味では無いのですよね?」


「察しが早くて助かります。この家に纏わる覚え書きや過去の当主の日記、集落の記録──、そういった物があれば何か手掛かりになるかと思いまして」


「ご期待に応えられるかどうかは分かりませんが、少し心当たりがございます。ええと、今直ぐにご案内した方が宜しいのですか?」


 シズクの言葉に、いえ、とカナメは首を振った。再び小首を傾げたシズクに、申し訳無いと軽く頭を下げる。


「この後少し、清水さんに話を聞く事になってまして。可能であればその後でお願い出来れば、と」


「ああ、そういう事でしたら、お三時のお茶の後にでもご案内させて頂きますね」


「それでお願いします。ありがとうございます」


 分かりました、と頷くシズクの視線が、ふとカナメの手許で止まった。座卓の上には何やら古い帳面のようなものが広げられている。


「カナエ様、それは?」


 シズクの問いにカナメは帳面を少し持ち上げ、表紙がシズクにも見えるようくるりと角度を変えた。糸で綴じられたそれは意外にしっかりとした作りで、和紙らしき色褪せた表紙には『金剛寺』の墨文字が見える。


「『何か役に立つ事が書かれておるやも知れぬ』、とアガナが持たせてくれた過去の住職の覚え書きです。正式な記録ではなく日記に近いもののようですが、それ故に掴めるものがあるのではないか、と読み解いていた次第で」


「成る程です、だから先程もこの家にそういう物が無いかと問うたのですね?」


「まあ、そういう事です」


 そう言いながらカナメが帳面を座卓の上に戻すと、シズクは深く頷いた。意図があやまたず伝わっているようでカナメは安堵の息を零し、そしてまた表情を引き締め直すと今度は卓の上で両手を組んだ。


「それから、──もう一つ、お願いしたい事がありまして」


「どうぞ、何なりと仰ってみて下さいませ」


 人に何かを頼んだり尋ねたりする際、それが複数であるならば、まず簡単な事柄から切り出すのが心理に長けた者の常套手段である。低い敷居を超えた直後に続けると、次の敷居の高度が下がるのが人間の常なのだ。カナメは理論立てて人心という物を学んだ訳では無いが、経験と直感によりその手管を知っていた。


 カナメは一呼吸置いてから、真剣な面持ちで話を切り出した。


「もし宜しければ、──ご母堂とお話をさせて欲しいのですが」


 シズクが一瞬、息を飲む。予想もしていなかった言葉だったのであろう。カナメは尚も畳み掛けるように話を続ける。


「可能であれば、で構いません。ご母堂がご病気であるというのも理解しています。少しだけでもいいのです。どなたかの立ち会いの下でも勿論……。ご無理を承知の上で、どうか、お願い出来ないでしょうか」


 少しばかりの沈黙が落ちる。狼狽と逡巡の色にシズクの瞳が揺れる。カナメは眼を逸らす事無く、ただ真摯にシズクを見詰めた。


 やがて、溜息めいた吐息と共に、シズクの唇が動く。その睫毛はまだ伏せ気味で、僅かに震えを残していた。


「……母は、体調に、いえ感情に波があります。その振り幅はとても激しく、昂ぶった際には私共でも抑える事が困難な程です」


「はい」


「また、母の精神は酷く後退しております。それにも幅があるのですが、おおよそ私や兄を出産する前、十代後半程度の事が多いです。それ以降の事は全て記憶から抜け落ちている状態です」


「ええ」


「それから兄以外の男性には激しく怯えます。特に背広を着た男性を見ると正気を失う程です。ですので、別のお召し物に着替えて頂く必要がございます」


「承知しました」


「母の調子の良さそうな時を見計らって、私と、それから清水さんか沢田さんの同席の元、短時間のみでしたら……何とか可能だと思います。明日か明後日かいつになるかは分かりませんが、それでも宜しいのでしたら」


「──それで構いません。無理を言ってすみませんが、宜しくお願い致します」


「……分かり、ました」


 深く頭を下げたカナメに、シズクは静かに細い息を吐いた。独り言じみた呟きが唇から零れる。


「そう、ですね……確かに母なら、何かを知っているのかも知れません。それに集落を救って欲しいと申し出たのはこちらです」


 カナメが頭を上げると、灰色掛かった瞳が憂いを湛え少し揺れていた。そう言えば、とシズクの桜色の唇が戸惑うように震える。


「あの、カナエ様。私からも宜しいでしょうか……?」


「何なりと」


「湖の骨……、あれは、警察に届けなくとも良いのでしょうか」


 ああ、とカナメはシズクの言葉で午前中に見た光景を思い浮かべた。少し思案するように組んでいた指を解き、組み換えてからゆっくりと口を開く。


「あれですか……。いや、少なくとも今は止めておいた方が良いでしょう。何らかの霊的、或いは呪術的なものが関わっている可能性があります故、警察が調べて直ぐに解決出来るとは思えません。それに大勢の警察官達に調査を口実に集落を荒らされるのは避けたいでしょう」


「カナエ様は、あれが何か、集落の秘密に関わっているとお思いなのですね?」


「あれが直結しているかどうかは分かりません。しかし、その可能性は多いにあると考えています。もしもあれが警察の調べで誰の骨か分かったとしても、集落の秘密が明るみに出る事は無いでしょう。むしろ今後はもっと慎重に、襤褸を出さないように隠され、調べる事がより困難となる筈です」


 カナメの考えを聞き、シズクは薄く目を伏せてうなだれた。わかりました、と小さな呟きが落ちる。怯えるようなその仕草にいたたまれなくなり、カナメは励ますように声を掛けた。


「何もずっとあのまま捨て置こうと言っている訳ではありません。ある程度の目処が付いた暁には、警察に通報するなりきちんと弔うなりしましょう、約束します。──シズクさんが、そんな風に気に病む事は無いです、落ち込まないで下さい」


 言葉に促されたのか、伏せていた顔をシズクがそっと上げる。その瞳は潤み、そして──一粒、すうと涙が零れた。


「ありがとう、……ござい、ます」


 白く細い、たおやかな手がそっと伸ばされる。思わずカナメは身を乗り出してその手を取った。繊細で美しい、ひんやりとした手は微かに震えていて、その儚さにカナメは胸の内に火が灯るのを感じる。


「シズクさん、心配しないで下さい。きっと、自分が救って見せます。シズクさんの不安を取り除きますから」


 真っ直ぐな視線でシズクを射る。ほろ、ほろほろと涙が零れ──。


 そして、シズクは淡く、微笑んだ。その笑顔は今にも消え入りそうで、カナメの拍動は強く熱く、胸を打つ。


「……カナエ様はお優しいのですね。信じて、……しまいそうに、なります」


「信じて下さい」


 手の平の中のシズクの手から力が抜ける。何処か冷たかったその肌はカナメの体温が移ったのか、仄かにぬくみを帯び始めている。


「必ず救いますから、……信じて、下さい」


 重ねた言葉には何の力も無い事を、カナメは知っている。それでも伝えずにはいられなかった。その想いを、その決意を。


「……はい。私、カナエ様を信じてみようと、思います」


 また一粒、涙が落ちた。言葉とは裏腹にその奥に潜む諦めと哀しみを感じ、カナメは腑の奥が燻る。そっと、どちらともなく手が離れる。少しの侘しさが残り香を漂わせ、何事も無かったかのように霧散した。


 袂で涙を拭い、失礼します、という挨拶だけを残してシズクは逃げるように立ち去った。


 煙草を取り出して火を点ける。吸い込んだその味はやけに苦く、天井を仰いで吐き出した紫煙だけが消えずにただ、ゆらゆらと揺れていた。


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