2-03



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 たらいうどんとは、ここから少し西に行った地方で嘱される、饂飩を使った郷土料理である。


 人数分の饂飩を茹で汁と共にたらいに入れ、出汁の利いたつけ汁で食べる麺料理だ。讃岐の釜玉とも通常のかけうどんとも違う独特の方式で、温冷の差はあれど一番近いのは素麺の食べ方であると思われる。


 四国で饂飩と言えば隣県の讃岐饂飩が全国的に有名だが、こちらの県でも饂飩は日常的によく食べられている。一部例外はあるものの、基本的には讃岐と同様に腰の強い麺が特徴だ。


 カナメは小さめのたらいの中、熱々の茹で汁から麺を適量掬ってつけ汁へと潜らせる。いりこと干し海老の香りが立つつけ汁には、既におろし生姜と十二分の葱を投入済みだ。たっぷりとつゆを絡ませてから、ずぞぞぞと一気に啜ると、つるつるとした食感と麺の弾力、鼻に抜ける香りと、そして何より温かな熱がカナメを体内から癒し暖めた。


 太めの麺は食べ応えがあり、満足感にはあっと息が漏れる。どれこちらも、と今度は稲荷寿司に箸を伸ばした。


 少し大きめの稲荷にかぶり付くと、じゅわ、と甘辛い味と胡麻の香ばしさが広がった。遅れてやって来る酢の風味は思ったよりも強めだ。酢飯の中には蓮根や牛蒡などの具材も混ぜ込まれており、感心しながらカナメはその組み合わせの妙を堪能する。


 後半は出汁に大根おろしを加え、すだちを搾って再び饂飩を啜った。青く爽やかな香りと大根の苦みが絶妙で、するすると饂飩が喉を通ってゆく。添えられた生姜漬けと共に食べる稲荷寿司も絶品であった。少し多めかと思っていた昼食は、すっかりとカナメの腹の内に無事納まった。


 さて、とカナメが食後の一服に紫煙をくゆらせていると、清水の声が掛かる。


「食後の甘味をお持ちしました。あらぁ、綺麗に食べて下すったんですね」


「ご馳走様でした、とても美味しかったです。饂飩もなかなかのものでしたが、特に稲荷寿司が絶品で。あれ。先に具材に別々の味を付けてあるんですよね、感心しました」


「へえ、そんな事まで分られたら困ってしまうわ! でも手間掛けたもんをそうやって褒められるのは、やっぱり嬉しいです、ありがとうございますねえ」


 カナメの率直な賛辞に、清水も満更でも無さそうに破顔する。昼食の食器を片付けた跡には暖かい茶と共に、小さな舟形の皿に盛られた柿が五切れ、鎮座していた。


「集落の唯一の名産、渋抜きの柿ですけん。どうぞ召し上がってみて下さいな」


「ああ、北の山の柿なんですね。へえ、渋抜きは初めて食べます。干し柿にはしないんですか?」


「ほら此処、雨が多いでしょう。だから干し柿は上手く出来ないんですよ、黴びてしまうんですわ。だから渋柿は全部渋抜きにするんです」


 成る程と頷きながらカナメは柿に手を伸ばした。菓子楊枝で刺した一切れを口に運ぶ。


「──ん」


 柿を食んだカナメが、予想と違った食感に驚いて目を見張る。その反応に、清水があたかも悪戯が成功した子供のように忍び笑んだ。


「柿と言えば柔らかいというか粘いというか、そういう印象だったのですが……これは全く違うのですね、驚きました」


「堅いでしょう? なのに甘いから、皆様初めて食べるとびっくりされるんです。人によっては、これ以外もう柿は食べないなんて方もいましたね。その方は毎年ここの柿を買いに来られるのですよ」


「成る程、これは確かに……柿の概念が変わりますね。面白い、美味しいです」


 果肉を咀嚼する度、何処か人参にも似たパリッという音がする。渋抜きに焼酎を使っている所為か独特の風味もあり、確かにこれは癖になりそうだ、とカナメは次の欠片に手を伸ばした。


 その様子に満足したのか、清水が盆を手にそろそろと立ち上がる。


「それじゃ、また後程器を下げに参りますね。ごゆっくりどうぞ」


「あ、清水さん。待って下さい」


 呼び止める言葉に、清水ははいはい、と笑顔のまま盆を置く。カナメは申し訳無さそうな声色で清水に問うた。


「すみません、少しお話を伺いたいのですが……後でお時間、頂けないでしょうか」


「うちにですか? 余りお役に立てるとも思えませんが、それでも良ければ、そうですね。お昼の仕事が一段落ついたらこちらにお伺いするというんで良いですかね?」


「ああ、それで結構です。お忙しいだろうにすみません」


 それではまた後で、と清水は言い残して去って行った。カナメは柿を囓り、茶を啜る。


 カリ、と身が張った果肉の中で、種の周囲だけがぷるりとしたゼリー状で、その不意打ちめいた差異にカナメは眉をひそめた。奥歯で噛み締め、ぬるみ始めた茶で飲み下す。控え目だが確かな甘味だけが舌に残る。


 どこか釈然としない物を感じ、煙草を取り出すと火を灯し、カナメは何かを断ち切るように深く深く吸い込んだのであった。


  *


「カナエ様、今お時間、宜しいでしょうか」


 障子戸の向こうから声が掛かる。カナメは伏していた顔を上げ、どうぞ、と障子に映る影に言葉を返した。


 すう、と開いた向こうに座っていたのはシズクであった。てっきり清水が来たものと思い込んでいたカナメは驚き、慌てて立ち上がるとシズクの傍へと駆け寄った。


「シズクさん、もうお身体は宜しいんですか。心配しておりました、大丈夫ですか」


「ありがとうございます、ええ、もう起き上がっても大丈夫です。よくある事ですので、その。……ご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」


 微笑む顔はまだ少し青く、カナメは抱き上げた際の軽さや華奢な骨格を思い出す。


「迷惑だなんて全然思っていません。それよりもその、勝手にお身体に触ってしまって、すみませんでした」


 少し視線を逸らして謝るカナメの言葉に、シズクの顔がみるみる朱くなる。あの、いえ、と口籠もりながらもふるふると頭を振るシズクの仕草に、思わずカナメは噴き出した。


「もう、笑わないで下さいまし! 清水さんに聞いてびっくりしたのですよ、まさか私を抱えたまま山を降りただなんて……カナエ様って見掛けよりもずっと力持ちなのですね」


 そしてシズクはまだ頬に朱を残しながらも、真剣な面持ちで床に手を突き深く頭を垂れた。


「──本当に、ありがとうございました」


 その仕草の流麗さに、白くしなやかな指に、震える睫毛に、艶やかな髪に、そして儚い笑顔に、カナメは拍動が跳ねるのを感じる。悟られぬよう呼吸を整え、努めて穏やかな声色でシズクに語り掛けた。


「謝る必要も、感謝する必要もありません。どうしても気になるならば、道案内を頼んだのは自分という事で、お互い様として相殺する形で如何でしょうか」


「宜しいのですか?」


「勿論です。なので、この話はこれで終わりにしましょう。いいですね?」


 はい、と頷いたシズクに、カナメは安心させるように微笑んで見せた。それから手を取って立ち上がらせると、座卓の向かいの席へと誘導する。


「ついでと言っては何ですが、少しお話ししたい事がありまして」


「ええ、何なりと」


 このまま楽しい話だけをして笑い合えたならばどんなに幸せだろうか──カナメはそんな妄想を振り払うように一旦薄く目を閉じて、そしてゆっくりと瞳を開く。


 鉄色めいたシズクの黒目勝ちの瞳が真っ直ぐに、そう真っ直ぐにカナメを見詰めていた。


 それはあのしゃれこうべの虚ろな眼窩を思い起こさせるもので、カナメは少しだけ寒気を覚え、僅かながらぞくりと身を震わせたのだった。


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