2-02
*
首の無い人物は陽炎めいて、ゆらりゆらりと朧に揺れる。簡素な白い着物の合わせは左前──つまりは死装束だ。その襟元は首から流れ出たのであろう血でドス黒く変色していた。その体格や胸の膨らみから、それが女性なのだと知れる。
何も言わずただ佇むそれを注意深く観察しながら、カナメは言葉を投げ掛ける。
「どうしました、そこの君。何がしたいのです。何か、伝えたい事があるんですか」
返事は無かった。しかし、首無しの女からは敵意や憎悪といった思念は感じ取れない。ただただ悲しみと諦めのみが淡く漂う。言葉を発せられないのは、頭が無い所為だろうか。肉の引き千切られたような首の断面から覗く骨は血で変色し、白い着物や血の気の失せた蒼白い肌との対比が痛々しい。
しばしの沈黙が流れる。と、──不意に、首無しの女が動いた。
すうっ、と片腕が上がる。油断無く立つカナメの視線を誘導するかの如く、それは動き、人差し指が伸ばされる。
そして指は、ピタリと一点を指し示した。
──その場所は凪いだ湖の片隅、特別靄の濃い部分。
「あそこに何かあるんですね?」
カナメの言葉に、根元だけ残った女の首が、僅かに上下したように見えた。そして用は済んだと言わんばかりに、ふ、とその姿が見る見る薄くなり掻き消えてゆく。
後には何も残らない。気配も、陽炎も、足跡さえも──。
どうしたものかと思案し佇んでいると、カナメの後ろに居たシズクが安堵の息をつきながらカナメの横に並んだ。
「あれ、幽霊さんでしたよね。首が無いのでびっくりはしましたが……、先程指で刺した所を伝えたかっただけなのでしょうか」
「恐らくは。危害を加えるつもりは無さそうでしたし」
「何が、あるのでしょうか」
「行ってみない事には分からないかと。自分が向かいますので、シズクさんは此処に居て下さい」
言い終えて歩き出したカナメを見上げ、慌ててシズクも声を上げた。
「お待ち下さいませ、私も行きます。置いていかないで下さいまし」
そして湖畔には、ジャクジャクという二人の足音が響き始めた。
*
「多分この辺りだったように見えたのですが……」
カナメが足を止める。鳥居から少し離れたその場所は靄が立ち込め、水面がはっきりと見えない程に蒼白く煙っていた。
この辺りの湖岸は碑のあった緩い斜面状の岸とは違い、切り立った低い崖のようになっている。特に靄の濃い部分は岸が湖にせり出すような形状だ。カナメは湖を覗き込むべく、注意しながら岸の先端部分にしゃがみ込んだ。
「カナエ様、何か見えますでしょうか?」
「それが、靄で煙って、中が見づらくて……」
後ろからのシズクの問いに返答しながら、カナメは岸から身を乗り出し曇った湖面に目を凝らす。陽光に煌めく水面はちらちらと、誘うように弄ぶようにその内を晒してはくれない。
これは、日を改めた方が良いだろうか──そうカナメが思い始めた時だった。
サァァ、と風が吹いた。
砂を巻き上げる程に強い風が吹き抜ける。ザザアアアァ、と湖面に強い波が立つ。カナメは慌てて帽子を押さえた。日傘が飛ばされそうになったのか、シズクが短い悲鳴を上げた。
「大丈夫ですか、シズクさん」
「いえ、はい、大丈夫でした。ちょっとびっくりしてしまいまして……、あっ」
「──っ、靄が」
二人は同時に驚きの声を上げた。先程の強い風で、湖面の靄が全て吹き飛ばされていたのだ。薄衣を剥ぎ取られた裸の水面が今、目の前に晒されていた。
覗き込むまでも無かった。透明度の高い水は、底に静かに佇むものを露わにしていた。
「──ひ、っ」
「こ、れは……」
シズクが息を喉に詰まらせる。カナメが目を見開き、呆然と凝視する。
──それは、人間の頭蓋骨。
煌めきを宿す水の底から、──幾つもの幾つもの真っ白いしゃれこうべが、虚ろな眼窩で二人を見上げていたのだった。
「あ……」
「……シズクさん? ──シズクさん!? シズクさん!」
ふらり、とシズクの身体から力が抜け、とさりと地面に倒れ込む。手を離れた日傘が転がる。異変に気付いたカナメが慌てて呼び掛けるも、シズクは目を覚まさない。気を失ってしまったようだ。
カナメはシズクの身体を抱えると、チラリ湖面に視線を遣った。うら若き女性がいきなり多数の人骨なぞ見せられたら、確かに気を失うのも当然かも知れない。
大きく溜息をつくと、カナメはこれからの事を思案する。何はともあれ、シズクを連れ帰り寝かせるのが先決だろう。手を伸ばし転がっていた日傘を畳むと腕に掛け、そしてカナメはシズクを抱き上げた。
いつの間にか空は、薄く曇り始めていた。
*
それからシズクを抱き上げたまま、カナメは静宮邸へと帰り着いた。清水にシズクを引き渡し、自身は客間へと早々に引き上げた。
思ったより時間が経っていたらしく、時計を見上げると十一時の半ばを回った辺りであった。カナメは煙草を取り出すと火を点け、深くゆっくりと吸い込む。
頭の中にあの首の無い女の幽霊と頭蓋骨の姿が浮かび、何度も同じ光景が繰り返される。あの骨の中に彼女の物も混じっているのだろうか。恐らくそうなのだろう、でなければ伝えようとした意図が分からなくなる。
あの風も奇妙だった。封印から漏れる程に濃い水神の気を、数分間だけとは言え完全に吹き飛ばしたのだ。誰──いや、何者が、何の目的で流した風だったのか、探る必要はあるだろう。
──考える事は山積みである筈で、しかし情報は全く足りてはいない。カナメはげんなりとうなだれて溜息と共に紫煙を吐き出した。
「失礼します、カナエ様」
十二時を僅か過ぎた頃に、障子戸の向こうから声が掛かった。はい、と返事をすると開いた障子の向こうに清水の笑顔があった。
「お食事の用意が出来ましたけんど、もうお持ちして宜しいですか」
「ああ、宜しくお願いします」
すぐお持ちしますね、との言葉を残し戸が閉められ、また直ぐに盆を携えた清水が現れた。客間の座卓の上に手際良く昼食が並べられてゆく。
本日昼の献立はたらい饂飩とたっぷりの薬味、そして稲荷寿司であった。配膳を終え、どうぞごゆっくり、と下がろうとする清水をカナメは呼び止める。
「あの、シズクさんのご様子は……」
ああ、そうでしたね、と改めて清水が頭を下げた。
「熱も出てないですし呼吸も穏やかです。直きに目が覚めると思いますよ。シズク様は少しお身体が弱くて、倒れてしまうのはよくある事なんです。……連れ帰って頂き、改めて御礼を申し上げます。ありがとうございました」
「いえ、大した事では。それよりもこちらがシズクさんを連れ回してしまった所為ですし」
「いえいえ、ご謙遜なんてしないで下さいな。ふふ、シズク様を抱き上げてあの山を下りて来なすったのでしょう? なかなか出来る芸当ではないですけん。まるで外国映画の俳優みたいで、男前っぷりに驚きましたよ」
思い掛けない賛辞に、カナメは何と答えて良いのか分からず苦笑を浮かべ頭を掻く。破顔した清水は、また頃合いを見て参りますね、と今度こそ下がって行った。
あまり目立ちたくは無かったのだが、清水のあの口振りだとどうやらそうもいかないようだ。カナメは少し溜息をつき、気を取り直して箸を手にしたのだった。
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